「報われない努力」
そういうものは一定あって、
いや、一定どころか多くはそうで、
「報われない」たびに打ちひしがれる。
だけれども、
うまくできているもので、
「これだけやったのだから仕方がない」
「努力」というものが、
そうした「セーフティネット」になってくれるのだ。
何も行動を起こさないで、
いつまでも悶々とし続ける。
私はそういうことには耐えられない。
何度か書いているけれど、
私は「努力中毒」で「努力依存症」だ。
「努力していないと、自分を認めてあげることができない」
そうやってやりすぎて、
前にメンタルをやってしまった。
無理の効かない体になってしまったものだから、
体と相談しながらだけれども、
それでも私は「努力」をやめることができないのだ。
コウペンちゃんが言うように、
「生きているだけでえらい!」
確かに生きているだけで大変だ。
すごい努力しているのかもしれない。
だけれども私には私の「理想」があって、
「生きていること」の中に、
それに向かって進んでいるという実感が必要なのだ。
20代後半の頃の話、
1年を振り返ってみて、
「人生で一番成長を実感できなかった1年だな」
そう思ったことがあった。
新しいことには挑戦していたし、
かなり攻めた旅行にも行った年だった。
それでも「成長を実感できないと感じる」
なんとも不思議に思った記憶がある。
「理想」ってものは、
言葉にしてあげないとわからない。
誰しも胸の中に秘めていて、
事あるごとにそれを取り出しては、
「現状とのギャップ」に一憂するけれど、
喉元過ぎれば熱さを忘れてしまうのだ。
私はここしばらく「誠実」という看板を掲げて、
「人をなるべく道具として見ない」
「自分の人生を愛する」
そんな言葉にして生きている。
そして「理想」と「自分の行動」とのギャップに気が付いては、
それを戒めたり、戒められなかったり、
それを繰り返している。
「前に進んでいる実感が欲しいのだ」
だから「努力」する。
そして10回に1度でも成果が上がれば、
自分を認めてあげられるし、
うまくいかなかった9回は、
「自分を納得させる」ために必要な糧になる。
前のように潰れてしまったら問題だけれども、
私にとっては「努力する」こと自体に意味があるのだ。
「成果」に一喜一憂することなく、
「やるべきことをやり続ける」
そういう日々でありたいと思う。
悶々とし続ける苦しみよりも、
例え打ちひしがれたとしても、
「報われない努力」を続けるほうが、
私の人生らしいのだ。
「自分」になるために今日も生きよう。