「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「自己責任」についての考察

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私は基本的に、自らに降りかかる事象のほとんど全ては自己責任だと思うようにしている。

 

たとえ理不尽な目にあったとしても、そこに至るまでの選択をしたのは自分自身、

そう考えることで前向きなメンタリティを維持しようと努めているのだ。

 

だけれども、時にはガス抜きが必要となる。

あまりにも多くを背負い過ぎてしまうと、誰かに対する批判が頭の中でぐるぐると回り続けるようになる。

 

それを解消してやらないと、しばらくの間は悶々として生きることになる。

ささくれ立った気持ちのまま、「自分はこんなに努力しているのだ」と、勝手にしている努力を盾に不遜な態度を取るようになってしまう。

 

貴重な人生の時間をそのような気持ちで過ごすことはもったいない。

だからどこかで発散する必要があるのだ。

 

「私の人生は私のもの」

 

「自己責任」の根底には「自主性」がなければならない。

「やらされ」が重なった先での自己責任、

それでは土台が脆いため、負荷がかかると底から崩れてしまう。

 

なんのための「自己責任」なのか。

それを自ら深めていかなければならない。

 

私は「多くの経験を積むための自己責任」だと捉えている。

 

新しい環境に飛び込んだ自己責任、大変になることは分かっていながら、挑戦することを決めた自己責任、

「人生の深み」を味わうためにはたくさんの経験を元にして、当事者の気持ちを想像できる自分であることが大切となる。

 

苦労や苦悩は私にとって、ある種の原罪やカルマなのかもしれない。

自ら望んで「苦しみ」を受けにいく。

私は人よりもそういう性質が強いと感じる。

もともと私に備わる性質なのだ。

 

だから「自己責任」

私はそう思って生きているのかもしれない。

 

その先にある人生、

私は自分の人生に期待をしていないようで期待しているのだろうか。

それとも、期待をしているようで期待していないのだろうか。

それは自分でもわからない。

 

少なくとも言えることは、私の人生には「苦しみ」が必要だということだ。

何かに挑戦していないと生きている実感を感じることができない。

 

努力依存症であり、努力中毒者、

それが私の本質なのかもしれない。

 

そういう人種は割と多いように思う。

そういう人に出会った時は「あっ、同じ種類の人間だな」と感じる。

 

ともあれ、自らの性質を受け入れて生きていくしかないのだ。

その先に何も残らなかったとしても、それはそういう人生だったということ、

 

そこまで含めて「自己責任」なのだ。