「期待」
相手に対する期待値が、
相手のそれを上回った分だけ、
「失望」に変わる。
「恋なんて言わばエゴとエゴのシーソーゲーム」
いぇーーーえー。
って、
ミスチルもそう歌っている。
自分と相手の「期待値」が、
大体同じくらいで推移して、
その関係がしばらく続いてやっと交際に至る。
交際してからも、
その「期待値」を互いに探り合って、
高止まりしている時もあれば、
地に落ちている時もある。
不思議なことに「地に落ちている時」でも、
お互いがお互いに関心があるならば、
意外と関係性は崩れることが少ない。
人は変化を嫌う生き物だから、
「慣性の法則」に従って、
ズルズルと関係を続けるのだ。
あまりにも互いの「期待値が低い状態」が長引くならば、
その期間と相手との関係性を天秤にかけて、
「別れ」を選択するのだろうけれども、
「結婚してくれないの?」だとか、
「触らせてもくれない」だとか、
結局、最後はどちらかの期待値が高まって、
相手がそれに応えることを拒んだ結果、
終局を迎えるのだろう。
だから「期待値の差」
そこに関係継続の肝がある。
女性が男性パートナーに対してイライラする場面、
「感情をぶつけたときに相手が黙り込む」
というもの、
基本的に男は、
自分の感情を言語化することが得意ではないから、
アウトプットの方策を探っているうちに、
女性から2の手、3の手が来るのだ。
そうこうしているうちに、
言葉が出なくなる。
「何か言ったらどうなの?」って、
そう言われた時点でもはや戦意喪失なのだ。
感情的になってもいいことはないけれども、
感情が絡まったときには「話し合い」が必要、
フラットに言い合える環境、
それを互いが提供しあうべきなのだろう。
そして、
そこにも「期待値の差」が見え隠れする。
女性の求める「男らしさ」
そして男の求める「女らしさ」
ベクトルの方向はほぼ真逆かもしれないけれども、
同じ力で引きあっていないと、
一方に引きずられてしまうのだ。
その均衡が崩れるほどに、
「こんなはずじゃなかった」って、
「失望」が生まれる。
そのたびにエゴをぶつけて、
エゴをぶつけ返される。
「身近な人」だからこそ、
「醜い部分」を見せあえるのだ。
パートナーが「身近な人」ではなくなったら、
それこそ感情のやり場が無くなってしまう。
「ケンカばかり」だって嘆くけれども、
「ケンカ」が続く限りは大丈夫なんじゃないかな。
だけれども気をつけなければならない。
その人とこの先も一緒に歩む未来が見えないのであれば、
きっとその直感は正しいのだ。
自分が一方的にエゴをぶつけていたり、
相手からのエゴを一方的に受けていたり、
そこに「等価交換」がなければ、
その関係は破綻している。
私はいつだってグッと堪えて、
相手のわがままを「作り笑い」で受け止めるばかり、
相手の気持ちばかりを先回りして慮って、
だから相手は「裏があるんじゃないか」って、
不信を感じて逃げていくのだ。
「もっとわがままを言って欲しかった」
去年言われた別れ文句、
「体の良い言い訳」くらいに思っていたけれど、
案外、的を得ているのかもしれない。
私は「誠実」であることにこだわりすぎているのかな。
それとも、
「作り笑い」と思われてしまう、
器の小ささに問題があるのかな。
私の「エゴ」をぶつけるのが苦手なところに、
天敵である「恋愛」に対する勝機があるのかもしれない。
そもそも「恋愛」を天敵とみなしている時点で、
ズレている気がする。
「恋愛」は本来楽しむものだ。
そして「結婚」は必ずしなければならないものではない。
だけれども私はそれを求めてしまっている。
そして私は「恋愛」がとことん苦手だ。
求めるものを得るためには避けては通れない。
やはり「恋愛」は「人生の天敵」なのだ。