「誰かを好きになる」ということは、
その好意が一方通行であるならば、相手にとって迷惑になることは少なくない。
ある意味では暴力だ。
ただ一方的にぶつけられる。
そしてぶつけられた方は、それになんらかのアクションを起こさなければならない。
それに応えられないようであれば、男は意気地なしとみなされるし、女性はお高く止まっているだなんて思われる。
そもそも相手の期待を裏切る結果となるわけだから、断ることで良い印象を与えられるわけがない。
テロのように一方的に投げつけられた好意に対する適切な処理、
扱い方を間違えるととんでもないことになる。
そうやって傷つけて、傷つけられているうちに、
「男なんて」「女なんて」とチーム対抗戦が始まる。
個人戦だったはずのものが、いつの間にかチーム対抗戦へと変わっているのだ。
フェミニスト界隈の人たちが「性的搾取」だのと訴える裏側には、必ずコンプレックスが存在する。
それに加えて、女性を性欲を満たすための道具として扱う男にもコンプレックスが隠されている。
そうやって互いを傷つけ合う泥沼に至るのは、相手に対する「期待」が大きすぎたからだ。
人は期待が大きければ大きいほど、それを裏切られた時の落差により谷底へと強く叩きつけられる。
「好意」という感情は厄介なもの、
お互いにその感情が程よくぶつかり合えばいいのだけれども、そうならない先には悲惨な結末が待ち受けている。
そもそも、その感情を元手にして関係がゴールまで辿り着くケースはさほど多くはない。
何度もすれ違いを繰り返す中で、ある程度擦り切れて、お互いがそのような苦行を経た先に妥協する形で一緒になる。
そういうケースがほとんどだろう。
常に同じくらいの強さで互いが「好意」を押し付け合えるのであれば、ちょうどいいところで均衡が取れて、二人の関係は心地の良いものになる。
だけれども、どちらかの気持ちが大き過ぎたり少な過ぎたりすると、その均衡は簡単に崩れてしまう。
崩れた関係をお互いが歩み寄る過程を経て、強弱は別として、気持ちの強さは同じくらいに落ち着くのだろう。
終着点は互いに無関心ということも少なくないようだ。
互いに好き、互いに無関心、
真逆のように見えてどちらも均衡が取れているのだろう。
だから一緒にいることが苦痛ではなくなる。
「誰かを好きになる」なんて勝手なこと、
その感情は自分でもコントロールできないという始末に負えないものなのだ。
そして、「誰かを好きではなくなる」ことも勝手なこと、
好き同士で一緒になったとしても、その感情が死ぬまで続くことは稀だろう。
いい加減な感情に振り回されて、いい加減な気持ちで一緒になる。
詰まるところ、結婚というものはそういうものなのだろう。
そこから先がまた新たなスタートなのだ。
だから、とりあえず一緒になって、とりあえず一緒に暮らしてみて、感情の変化と共に関係は移ろっていく。
それでも一緒に暮らし続けられるならば続ける。
暮らしているうちに一緒に暮らす理由も増えてくる。
だから、特に一緒にいたい理由がなかったとしても、一緒に住み続ける。
「始まり」がいい加減なのだから、どこまでもいい加減でいいのだろう。
その「身勝手さ」に身を委ねられるようでなければ、恋愛なんてものはできるはずもない。
自分のやり方にこだわり過ぎているうちは、私の人生が先に進むことはないのかもしれない。