何事にも「あそび」というものが必要だ。
何かあったときのために余白を残しておく。
そこまで計算して生きて初めて、
「大人」になれるのかもしれない。
ドレスコードのあるようなレストラン、
「居心地が悪い」
それが日常に溶け込んでいるような人ならば、
そんなことはないのかもしれないけれど、
庶民には敷居の高いものだ。
周りは大して気になどしていないのだろうけれど、
「マナーやしきたり」
暗にそういうものを求められているようで、
そこに気疲れしてしまうのだろう。
それと同じように「ちゃんとした人」
そういう人といっしょにいると、
気疲れしてしまうのかな。
だから「ちゃんとしていた」としても、
プライベートな場では、
「ちゃんとしていない」ように見せる。
そういう親しみやすさを醸し出すことも、
重要なスキルなのだろう。
「ちゃんとした人」過ぎて居心地が悪い。
先日まで会っていた女性から、
そのようなニュアンスのことを言われた。
彼女から見たら、
私は色々と「こだわり」があるようだった。
「感性だけで生きている」と自負していた彼女、
その目から見て窮屈だったのだろう。
ビジネスならば、
適度に「道化」を演じて懐に入りつつも、
その後の「パリッと」した感じがちょうどいいのかもしれないけれど、
私の性質は恋愛には向かないのだ。
食べ物の感想を伝えたら「食レポみたい」
野球の話をしていたら「解説者みたい」
本の話をしていたら「頭良さそうですね」って、
10個も年上なのだから、
それなりに積み重なるものはあるだろう。
「歳の差は気にしない」と言いながらも、
「感覚の違い」は感じていたようだ。
結局は3回ほど会って、
「ちょっと違う」
そう言って彼女は去っていった。
私が目指すべきは「濡れせんべい」か。
見た目は美味しそう。
一口目から噛みやすい。
加えて噛めば噛むほど口の中に味が広がる。
まさにお米と醤油のハーモニー、
優先席を前にしてお米と醤油が席を譲り合っているうちに、
目的地までついてしまった感じや~。
とまあ、
私の「食レポ」の実力はこんなものだ。
それとも、
私は私を「正露丸」のように甘い衣で包むべきなのだろうか。
舐めずに飲み込んでもらえれば、
苦味を感じさせることなく、
関係を進められるのかもしれない。
中の味がわからなくても、
飲み込んでしまえば、
そんなものはどうでもいいのだろう。
口に入れるまでに十分見た目を確かめて、
口に入れてからも十分に味を確かめて、
その結果、ようやく飲み込む。
飲み込んだ結果、
中毒症状を起こさなければ「結婚」に至る。
「婚活」って、
そういうものなのかな。
会えるところまで行くことは多い。
2度目につながることもそこそこだ。
それならば、
私はおそらく「味」に問題があるのだろう。
「性格に難がある」ということだ。
それって割と致命的、
私が求めるような相手からは、
私の性格は求められていない。
「ちゃんとしている」
人として「ちゃんとしたい」と思って、
誠実であるように努めてきたけれど、
結局、多くの女性は「自分がいないと生きていけない」
そういう手のかかる男を「居場所」として求めているのかな。
フェリーニの映画『道』
どんなに蔑ろにされても、
ザンパノから離れられなかったジェルソミーナ、
何度も離れるチャンスはあったのに、
離れることはできず心を壊してしまった。
人は「居場所」がないことに耐えられないから、
必要とされていれば、
どんなに辛い環境にもしがみつくのだ。
そして宿主は、
それを担保にして支配者を気取る。
失って初めてその存在の大きさに気がつく。
結局は「共依存」
互いが互いを「居場所」にしている。
それが短絡的に見れば、
「恋愛」ってやつなのかもしれない。
自立したもの同士の恋愛、
そういうものに憧れを抱いてきたけれど、
私は結局は「男としての自尊心」を満たしたいだけなのかな。
そのくせ、
妙にインテリぶって、
哲学の真似事にばかり興じている。
問題はきっと私にあるのだ。