最近気が付いたこと、
「憎しみ」という感情が、
私の中でどのように生まれたのか考察してみた。
消えてしまわないように注意深く、
「憎しみ」くんの後をつけてみたのだ。
すると意外なことに、
「未来への不安」よりも、
「取り返せない過去に対する憤り」
そこにたどり着くことが分かった。
私は未来を充実させれば、
この「憎しみ」は消えてくれるのかと期待していた。
今が「満たされない」から、
だから「憎しみ」が生まれてくるんだって、
そう思っていた。
だけれども、
現実は厳しいみたいだ。
いくら満たされたところで、
「トラウマの元凶」に関わらざるを得ない環境では、
どうやらそれと向き合って「過去の自分」を肯定する。
そういう作業をしないといけないみたいだ。
backnumber『そのドレスちょっと待った』
一度記事にしたかもしれないけれども、
辛かったときに自分の惨めさを代弁しているかのように感じて、
今ではあまり聞きたくなくなるくらいに何度も聞いた曲だ。
「別れてずいぶん経つどころか、
僕なりに新しい幸せを手にしたつもりだったのに」
記憶の底にあるくらい随分前の元カノ、
その結婚を友人から聞いて「祝いの言葉」を口にするけれど、
その言葉とは「真逆の気持ち」に戸惑うところから、
もしかしたら「自分が式で元カノの隣にいたかもしれない」って、
そんな惨めな妄想に至る。
曲の締めくくりはこうだ。
「君と僕の運命がもう二度と交わらないことをお慶び申し上げます」
「過去と向き合うこと」
それは「未来を掴み取る」よりも辛いこと、
二度と関わらないのであれば、
記憶はどこか彼方に消えてくれるのかもしれない。
そしていつの間にか、
その記憶は「熟成」されて、
都合の良い美談にでもなっているのだ。
だけれども、
私の場合はそうはいかない。
それならば、
相手を許すことはできないとしても、
「過去の不甲斐ない自分」を許す必要があるのかな。
「トラウマの源泉」
考えてみれば、
それが過去にあるのは当たり前のことだ。
私は「未来」ばかりを見て、
何とかごまかそうとしていたけれど、
それではいくら頑張ってもうまくはいかないのだな。
どうしたら過去の自分を許してあげられるのだろうか。
その方法すらわからない。
結局は「過去から続く今」が満たされているかどうかなのかな。
それでは周りに回ってまた通り、
だけれども、
どれだけ私がこれから先に満たされたところで、
「トラウマ」が消えることを想像できない。
いったいどうしたらいいのだろう。
「今の自分の価値」を、
自分が「誰よりも信じてあげること」だろうか。
もしもそれができたならば、
もはや人生クリアだな。
そこまでいかなかったとしても、
ピンポイントで解決できる道はないのだろうか。
生きている限り悩みは尽きない。
だけれどもそれが人生というものなのだろう。
人はいつだって無い物ねだり、
欲望と折り合いをつけながら生きているのだ。
未来にばかり思いを馳せたところで、
過去を受け入れない限り、
輝かしい未来はないのだ。