年を取るにつれて、
「世界」のことをわかったような気になっていく。
だけれども、
それは「自分」というフィルターを通して見える自分が作り上げた「世界」
都合の良いものしか目に入らないように、
自分で自分に「目隠し」した上で見える、
そんな「世界」なのだ。
年を取るほどに、
「目隠し」の仕方がうまくなる。
そして、
「目隠し」をしていることまで忘れてしまう。
アイマスクの都合の良いところにだけ、
小さく穴を開けちゃってさ。
そこから見える「世界」が全てだと思い込む。
「見える世界」が全て、
「見えない世界」の存在を認識しようともせずに、
自分が「世界」を支配したような気になって、
横柄な態度を取るようになって、
どんどん「世界」から嫌われていく。
「世界」ってものはさ。
そんなに簡単に理解できるものではないんじゃない?
見える範囲は狭まる一方だから、
持て余した視野を自分の内面にばかりに向けてさ。
周りの人達にも、
自分と同じように脆くて弱い「心」があることを忘れてしまう。
「世界」から嫌われている理由も考えないでさ。
足りないものばかりに目を向けては、
「自分は報われない」って、
ネガティブな方向にばかり引きずられていく。
見える範囲を拡大するだけでも、
また違う「世界」が顔を出す。
結局はただ頑張らなくていい「理由」をつけて、
「今の自分」を正当化したいだけなんじゃないかな。
行き詰ったら見方を変えてみればいい。
「世界」の見え方なんてものは無数にあるのだ。
安易に「もう終わりだ」って言うけれども、
どこかで将来に期待しているから、
予防線を張っているだけなんでしょ。
「本当の終わり」まで何をするか。
人生を嘆く暇があるならば、
今日1日何を成すか。
そのことにだけ集中していれば良いんじゃないのかな。
その積み重ねが「生き様」というやつ、
愚痴だらけの人生、
成し遂げた人生、
それを選ぶの自分自身、
深く生きれば生きるほどに、
「世界」は緻密で繊細に見えてくるのだ。
どうせならば私は、
細部までしっかりと「世界」ってやつを見てみたい。
マクロよりもミクロ、
全体像よりも構成要素、
私は「世界」のそっちの方に、
興味関心があるのかもしれないな。