「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「メタ認知」のし過ぎによる弊害

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メタ認知


己を客観視して感情のセルフコントロールを促す。

これにより必要以上に感情に囚われなくなる。


私にとってのブログ執筆はこれにあたるだろう。


執筆中だけではない。

浮かんだ言葉を書き留める事がクセになった。

そして没となった記事やストックも山ほどある。


そう考えると私はここ900日ほど、

毎日これでもかというほど、

メタ認知」をしていることになる。


自分と向き合う作業だ。

「今の自分」だけではなく、

「過去の自分」とも向き合わざるを得ない。

自分に嫌気がさすこともたびたびある。


精神科医である樺沢 紫苑さんの『アウトプット大全』によると、

「2週間で3度以上使用した記憶は重要な記憶として脳に定着する」

とのことだ。


「反芻思考が止まらない」


「痛み」は自己防衛本能だから、

自分と向き合えば向き合うほどに出しゃばってくる。


その「痛み」と向き合う回数が増えるほど、

脳はその「痛み」を重要な記憶として定着させる。


要は「痛み」を増幅させるのだ。

そしてそれに耐えられなくなると、

「痛み」に伴う「怒り」の矛先を探すようになり、

「憎しみ」が育つ。


そうやって「正」の感情だけでなく、

「負」の感情も増幅させてしまう。


そうやってダークサイドに落ちてしまうと、

自分を客観視できていても、

感情が独り歩きしだすのだ。


「悪に堕ちる自分」


それを認識しながらも、

それを止めることができない。

そうやって「ダース・ベイダー」が生み出される。


メタ認知」のし過ぎ、


それも考え物だ。

忘れ去りたい過去さえも忘れさせてくれない。


笑ってしませば良いことにまで、

いちいち「理由」をつけて「ダメな自分」を作り上げる。


私は「自省的」だから、

その傾向が顕著だ。


「向き合いすぎてもいいことないな」


ダメな自分に向き合わないことも問題だけれども、

向き合いすぎてもいいことはないと感じる。


やはり「中庸」なのだ。

「中途半端」ではなく「中庸」


東洋哲学の真髄か。

その「中庸」を見定めることがまた難しいのだけれども、


「世間の基準」でもあり、

「自分の基準」でもある。

「落としどころ」ってやつか。


それをうまいこと選択し続けて、

波風立たせずに自分を納得させてやる。

そんな生き方が最もスマートなのだろうな。


だけれども、

そんなに簡単にうまくいくはずはない。


自分の底辺を見つめて、

それを少しでも底上げしようともがく。


私はきっとそういう作業に、

その作業自体に「生きがい」を感じているのだ。

 

吉本ばななさんは確か『アムリタ』の後書きで、

「この世界には知らなかった方が良かったことなど存在しない」

そう書いていた。

tureture30.hatenadiary.jp

 

知ることのできないことはあるけれど、

知ってしまったら無かったことにはできない。

そして人の好奇心は止められない。

 

「前に進むしかない」

 

無かったことにはできないのだから、

生きるためには前に進むしかないのだ。


「人としてどうなの?」

そう自分に問い続ける。

 

生きるために、

「生きがい」を感じるために、

自分に問い続ける。

 

それが私にとっての「メタ認知」なのかな。