人は「感動するために生きている」
そういっても過言ではないだろう。
「生きている実感」を最も感じられるものが「感動」には詰まっているからだ。
人の脳は「感動したこと」を重要な記憶として保存するようにできているらしい。
これは「感動」というものがいかに人生にとって必要かを示す証左でもある。
いつの頃からか。
私はテレビを見ていて「すごい!」とか「よっしゃー!」とか、一人でそうやって盛り上がっていることが増えた。
今の時期なんか特にそうだ。
毎日オリンピックを見ては「ドーパミン」をドバドバ出して歓声をあげている。
そうなってくると、その感動を与えてくれた選手のことが好きになる。
「感動」という体験を通して分泌される脳内物質によるものだろうか。
「この人は良い体験を与えてくれる人」だと、
半ば刷り込みのようにインプットされるのかもしれない。
冷静に考えてみると、この「効果」はすごい。
自分が感動するクセをつければ、すぐに人に対して好意を持つことができる。
逆に「感動させること」を意識して振舞えば、好意を持たれる可能性が高まる。
全てをコントロールできるわけはないけれど、
自分が周りを好きで、周りも自分を好きだなんて世界のほうが居心地は良いだろう。
脳が「感動」というものに支配されているのであれば、それをうまく活用しない手はない。
「心を動かす」
そのためには「苦労した経験」が必要だ。
触れる情報をきっかけに「経験」が呼び起こされる。
それによって「共感」が生み出されて心が動く。
そもそも琴線に触れるようなものがなければ心は動かない。
「オリンピックに全く興味がない人」はおそらく、
「これまでオリンピックで感動したことがない人」
人は「経験を信仰する生き物」だから、
経験したことのないものを信じることは難しいのだ。
それならば「心を動かすクセ」をつけたほうがいい。
人は「他人の嫌なところばかりに目を向けてしまう」から、どんどん「憎しみ」を増幅させていく。
その過程で「醜い自分」に対する嫌悪感まで増していき、自分のことまで嫌いになっていく。
素直に「すごい」と思って、
素直に賛辞を送って、
素直に心を動かすことができる。
「心の柔軟性」とでも言えばいいだろうか。
そういうものは重要だと感じる。
年を取れば取るほどに心は動かなくなり、
やがて手足も動かなくなる。
多くの場合、まずは心から動かなくなるのだ。
だから「感動グセ」
ミーハーだって何だって良い。
「きれいな方向」に心を動かすことができるのならば、
色んな人のお気持ちにばかり寄り添っていたらキリがないから、
都合の悪いことには多少蓋をして、素直に心を動かせばいい。
世の中には「いいおはなし」が溢れているのだ。
それを素直に見つめて、心を動かして、
「心が動いたこと」を人に伝えればいい。
人の心は「晴耕雨読」で満たされる。
それはそこに「感動」があるからだ。
日常に散りばめられた小さな幸せのカケラたち、
それを見逃すことなくかき集めて、
心を動かすための依り代にすればいい。
「都合よく生きる」
人生はそれくらいでちょうどいいのだ。