私は世間一般でいうところの、
「ポエマー」に属するのだろう。
ブログの世界では恥ずかしい文章を惜しげもなく披露している。
そしてそこに心地よさすら感じている。
英語で詩人を表す言葉は「poet」
「ポエマー」という言葉は和製英語らしい。
そこに込められる侮蔑、
「痛い人」的な意味合いだろうか。
だけれども私に言わせれば、
「痛い人」にもなれないで、
自分の脳内を世界に晒す意味があるのだろうか。
ブログ執筆の目的は人それぞれ、
そしてブログを読む目的も人それぞれだろう。
私は「痛い人」としてブログを書いていて、
「痛い人」のブログを読むのが好きだ。
「人間なんてみんなどこかおかしい」
それを隠すのがうまいか下手か。
「痛い」か。「痛くない」か。
おそらくそれだけの違いなのだろう。
自分のおかしなところを隠して、
それがバレやしないかとビクビクしながら過ごす。
みんなそうやって生きているのだ。
だけれども、
気をつけなければならない。
アウトプットを癖にしてしまうと、
ふとした時に「道化」に成り下がっていることに気が付く。
自己開示の閾値が低くなってしまうのだ。
「世間との乖離」
人は理解できないものを恐れる。
私は自己開示によるメリットは、
そのデメリットを凌駕すると思っているけれど、
世間ではあまりそう思われていないようだ。
自分の「恥」や「傷」
リアルでそういうものをさらけ出すと、
逆に不審に思われることもあるだろう。
結局、
人は皆「ペルソナ」を被っていて、
腹の探り合い、
化かしあいの中で生きているのだ。
だからオープンであることを「異質」に感じる。
「気持ち悪い」
そうやって理解できない怖さを緩和するために、
敢えて自分の下に置こうとするのだ。
それが「ポエマー」に対する侮蔑の正体なんじゃないかな。
世界はどこに進んでいくのだろう。
心のうちをさらけ出すこともできずに、
言葉や態度を信じることができなくなって、
数字がものをいう世界になるのかな
「信じること」を恐れるあまり、
人は人を人として見なくなる。
誰もが「ありのまま」でいたいはずなのに、
どうにもそうはいかないみたいだ。
ポエムも書けないような人間が、
いくら「自分探し」と称して旅をしたところで、
「新たな自分」に気がつくことができるのかな。
「自分」は自分の内側にいるのだ。
私は「私と世界との関わり方」
そんなテーマでブログを書き続けている。
一人で海外に行ったり、
宿も決めずに一週間ほど一人で放浪したこともあるけれど、
ブログを書き続けている方が、
よほど重要な発見がある気がする。
「痛い人」にもなれないで、
ただ「痛い人」を嘲笑する。
そういう表現力の足りない人たち、
「怒り」や「侮蔑」の影には、
必ずコンプレックスが隠れている。
きっと「痛い人」にもなれないから、
「痛い人」のことが羨ましいのだろう。