私はブログを通して自分の内面を、
「これでもか」というくらい晒している。
だけれども、
外面については晒していないし、
晒すつもりもない。
「YouTuber」という人種、
彼ら、彼女らは自分の外面を晒している。
「インスタ」やら「TickTock」もそうだろう。
もちろん外面を晒さないタイプもいるけれど、
その工程の中には「編集」というものがあり、
その作業を通じて、
自分の外面を嫌というほど客観視するのだろう。
それってすごいことだ。
誰もが手を挙げればタレントになれる。
そういう世界だ。
ここ最近はビジネスもオンライン化が進み、
自分の外面を見る機会はかなり増えたけれど、
私は私の映像や音声を客観視する機会はあまりなかった。
いや、むしろ増えたことによって、
自意識が芽生えたのだろうか。
「人から見た自分」
想像と違うところがたくさんある。
声一つとってもそうだし、
話し方や何気ない仕草、
そういうものの中に相手を和ませたり、
逆に不快にさせたりするものがあるのだろう。
「YouTuber」
彼ら、彼女らは日常的に、
自分の醸し出すそれらを分析していることになる。
それって大きなメリットだ。
先日、知り合いの子供と話す機会があった。
デュエルマスターズに夢中な小学2年生、
カードを色々と見せてくれたけれども、
私にはよくわからなかった。
将来の夢を聞いてみたら、
「Vtuber」になりたいとのこと、
顔出しはしたくないみたいだけれども、
その世界への憧れがあるようだ。
おすすめの動画なんかを色々と教えてくれた。
子供たちの興味がこれからの時代を作る。
「そういう時代なんだな」って思った。
だからこれからは、
カタチは変われど誰もが当たり前のように、
「表現者」になるのかな。
「パーソナリティの肥大化」
人を記号として扱わないように、
それには気を付けないといけないけれど、
そういう社会になれば個人の能力は飛躍的に伸びる。
「自分の頭で考えられない」
そういう人種は淘汰されるのだ。
今後10年で多くの職種が淘汰される。
そういう試算を見ることが増えたけれど、
あながち間違いではないのかもしれない。
「新人類」
ある意味ブロガーは片足突っ込んでいる。
自分の言葉で何かを綴ること、
そこに身振り手振りや声色、
そういうものまで加えた「表現者」
「表現者」としてもう一歩階段を昇るには、
外面的に自分を客観視する経験、
私にはそういうものが必要なのかな。
内面のメタ認知は嫌というほど続けている。
やりすぎて自分を嫌いになってしまいそうなくらいだ。
だけれども「自分の客観視」
いわば外面的なメタ認知、
それは明らかに不足していると感じる。
オンライン化の流れはいい機会だ。
私は私がどう見られているのか。
そのことに目を向けるようになった。
「新人類」に対抗すべく、
少しはそういうことを意識したいと思う。