「自分の時間を形あるものとして残したい」
アーティストには、少なからずそういう気持ちがあるだろう。
その観点からすると、作品は「生きた証」となる。
私の書いているブログも似たようなものだ。
自分の足跡を記録して、それが確かなものであったと確認するために書き続けている。
「作品を作る」
どうしたって、その活動の中には気持ちが宿る。
言われるがままに書いたポップスだって、適当に書き連ねただけの文章だって、必ずどこかに人の意思が宿っている。
その人が存在しなければ生み出されることのなかったもの。
それが作品なのだ。
人にしたって、作品に生かされているところはある。
過去の自分を振り返り、自分という人間の存在意義を確認する。
ある種の依存関係が、そこにはあるのかもしれない。
ブログを含めて、作品を作り続けている人には目的がある。
それは「無意識」の中にあるのかもしれないけれど、必ず作り続ける目的があるのだ。
そして、ある意味では自分の分身とも言える作品を作るからには、自分と向き合う作業が必要となる。
「生きる意味」
そんな答えのない問いに対する、
途方もない思考の繰り返し。
それを続けることは、人の本能なのだろうか。
いや、理性から発するものだろう。
私が1500日以上も毎日ブログを書き続ける目的は、おそらく「変わりたい」という思いが強かったのだと思う。
そのとっかかりとして、私はブログを書き始めた。
そして、それは一つの形として身を結ぶ。
私は転職をして、素敵な妻と出会い結婚をした。
「童貞こじらせ男」の結末としてはこれ以上ないものなのだろう。
だけれども、私はまだ書き続けている。
「習慣だから」という言葉で片付けられるのかもしれないけれど、どこかに何か引っかかるものがある、そんな違和感を拭うことはできない。
まだ先がある。
私の人生は、ここでプツリと途切れるわけではないのだ。
表舞台を去った芸能人だって同じ、山口百恵さんだって、芸能界を引退してからも母としての人生を続けていた。
まとまらなくなってきたけれど、何が書きたいのかというと、
「人は生き続けなければならない」
そして、そのために「作品を作り続ける」
「人」と「作品」の間には、そんな関係性があるのではないかということだ。
私は書き続けることで、私の人生を諦めなかった。
だから、ここまで辿り着くことができた。
これは、一つの成功体験でもある。
人の人生は、どこかのタイミングでプツリと途切れる。
だけれども、残した作品は、命とは関係なく残り続ける。
作品は、作者の分身。
「もがき苦しみながら生きてきた証」
生きる意味を求めて、暗闇の中を歩き続けるにあたり、拙い灯火として、自分の目も前を照らしてきた希望の光でもある。
私は今日も、暗闇の先にある「何か」を求めて火を灯す。
私はまだ、人生に何かを求めているのだ。