毎日メッセージをやり取りしている女性がいる。
だけれども会うことはできない。
緊急事態宣言下ということはあるけれども、
本当にそれだけなのだろうか。
どこか心ここにあらず、
そんな様子がうかがえる。
そしてそれは私も同じ、
連絡は向こうから来た。
異性とつながっている感触が欲しいのだろう。
そしてそれは私も同じ、
「寂しさ」を埋めるための道具、
お互いがお互いをそのように使っている。
利害関係の一致、
ある意味では「結婚」というものも、
同じなのかもしれないな。
だからこのフワフワした関係の延長線上にあるもの、
結果はそこにあるのかもしれない。
この年になってくると、
目的がはっきりしているのだ。
女性から見れば「減点評価」で進んでいって、
及第点を維持していれば合格となる。
そしてどこまでもその評価方式は続いていく。
そんな品定めの仕方、
「結婚」してからも減点は止まらず、
それではどこまで行っても妥協でしかない。
「人の心」というものは、
そんなに簡単に割り切れるものなのかな。
人並みに経験を積んできたのならば、
「もういいや」って、
そういうものなのかもしれない。
だけれども私には経験が足りないのだ。
だから「恋愛」に多くを求めてしまう。
どこかで妥協しないといけないのかな。
「気持ちの通じ合う関係」というものは、
若いうちにしか構築できないものなのかな。
私は多くを望みすぎているのかもしれない。
変に「モテ期」を経たものだから、
望んで努力すれば希望は叶うって、
妄想ばかり膨らませて、
結局はいくつもチャンスを逃し続けてきた。
そうして一人で迎える自粛期間、
手元には何も「育むもの」がないのだ。
だからメッセージのやり取りをして、
何かを「育んでいる気」になる。
おそらく相手も同じなのだ。
一昔前の私ならば、
きっとこう思ったはずだ。
「その関係の先に未来はあるの?」って、
だけれども、
「未来はある」のかもしれない。
その先にある「結婚」というものだって、
どこか私が「憧れ」を抱いていただけで、
憧れるほどのものでもないのだから、
手に入らなければ入らないほど、
時間をかければかけるほど、
人はそのことに執着するようになる。
そして多くを求めるようになる。
虚像ばかりが大きくなって、
実像は遠ざかるばかり、
どこかで折り合いをつけて、
「これくらいかな」って妥協して、
その中で生きていくしかないのかな。
「好意」
それは少しばかりの燃料にはなるかもしれないけれど、
その「多寡」で未来が決まるわけではない。
互いが妥協した先に広がる道だとしても、
その先に「不幸」が待ち受けていると決まったわけではない。
進んだ先がどうなるかは当人たち次第なのだから、
私はただ、
好きあって結ばれたいだけなのに、
それはなんて難しいことなのだろう。