「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

生きる。

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「ポジティブ」で在り続けることは、

ある意味では「本能に逆らう」こと、


人は危険を回避するために、

「ネガティブな情報」を優先してインプットする。


「偏桃体」は今か今かと絶えずスタンバイしていて、

「不安」や「恐怖」の信号を五体に送ろうとしているのだ。


基本的に人は「ネガティブ」な生き物、


それ故に予防線を張り、

期待が裏切られたときの緩衝材を用意して、

「やっぱりね」だなんて言葉で自分を慰める。

 

「セルフハンディキャッピング」


そうやって、

何とか自分自身が壊れないように、

必死で大事なところを守っているのだ。


「ネガティブ」で自分を守ったほうが楽だ。

変に「明るい将来」に期待しなくて済むから、

 

どこかで物足りなさを感じていても、

「期待」さえしなければ、

大きく傷つくことはないのだ。


だけれども、

その「生き方」に慣れてしまうと、

自分で引いた境界線からは意地でも出なくなる。


そうやってどんどん選択肢は狭まって、

気が付けば走っているレールから抜け出すことはできなくなっている。


傷ついた経験もないくせに、

傷ついたフリばかりがうまくなって、

傷つくことから逃げているうちに、

傷つくこともできなくなって、


そのくせ、現状への不満ばかり漏らして、

一時の快楽に身を委ねることで発散して、

いったい何をもって「生きている」と言えるのだろうか。


「命の使い方」


ここしばらくの間よく考えること、

私はまだレールの上を走るだけで精一杯なのかな。


精神的にはだいぶ落ち着いて、

生活はほぼ取り戻したけれど、

どこかに「恐れ」があるのかな。


精神的に、身体的に、

1度ずつ死にかけたから、

「死」に対する恐怖とは向き合って来たつもり、


実際にもう一度「命の境目」と直面したら、

私はどう思うのか。

 

それはわからないけれど、

私は私の命のことを「仕方がないのかな」

くらいには思えているのかもしれない。


大河ドラマ麒麟がくる』で、

染谷将太さん演じる織田信長が本能寺での謀反の相手が光秀だと知ると、

「是非もない」と放った一言、


今よりもずっと「死」と隣り合わせで生きる時代だ。

 

「いつ死んでも悔いはない。

ましてや相手が光秀ならば良い」

それくらいの気持ちだったのかもしれない。


その反面で、

「この世でやることはやり切った。

もう生きることに疲れた」

そういう思いもあったのだろう。


もしかしたら人は、

「死に場所」を探して生きているのかもしれない。


何度も書いていることだけれど、

「命の尊さ」ばかりがクローズアップされて、

「命の使い方」に言及されることは少ない。


生きた年数ではないのだ。

心から「生を全うした」と思えること、

何よりもそれが大事、


私はまだやりたいことはあるし、

やり残したこともたくさんある。


まだまだ知らないことはたくさんあるし、

愛する人と体を重ねる経験もしてみたい。

 

ふとした時に感じる穏やかな気持ちから、

「生きていてよかった」と感じることもある。


良い作品に巡り合えたら、

「人に伝えたい」と思って筆を執る気力はあるし、

それに対する反応を嬉しく思っている。


だけれども、

いささか「疲れたな」と思うこともある。

 

「生きていることに疲れたな」って、

そう思うこともある。

 

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だいぶ話は逸れたけれど、

それもこれも私が「自分を守る為」に、

「ネガティブ」に引きずられているからなのかな。


「生きたいように生きればいい」けれど、

それは簡単なことではない。


「望んでも手に入らないもの」はたくさんあるし、

「報われない努力」のほうが多いくらいだ。


それでも私は「生きる」


「生きる」というレールの上から、

横道逸れることは私にはできないから、

 

ある意味では「死ねないから生きる」

そういう側面もあるのかもしれない。


そういう予防線を張って、

「幸せ」を逃してもダメージを受けないようにって、必死なのだ。

 

私はとことん臆病な人間だ。

特に女性関係についてはトラウマ級の恐れがある。

 

過去にばかり縛られて、

先に進むことを恐れ続けている。

そのくせチャンスを逃しては打ちひしがれている。

自分で選んでチャンスを見送ったくせにね。


それでも「生きる」


愚かで、浅はかで、醜いからこそ、

人は「生きる」のかもしれない。


それでも「生きる」ということは、

きっと何物にも代えがたいくらいに素晴らしいことなのだ。

 

そう信じて、私は生きる。

私にはきっとそれしかできないのだ。

 

望む未来につながらなかったとしても、

望む未来からそっぽ向かれたとしても、

 

どんなに努力が報われなかったとしても、

報われることを信じ続けて、

どこかに到達することを信じて、

私は生きる。

 

それしかないのだ。