私は自省的だ。
だから「ストレッサー」に晒されると、
無意識にそのことについて「反芻思考」を始める。
頭の中をグルグルと「負の感情」が駆け巡る。
それで対処法が導き出されるものであれば、
その通りにすればいいけれど、
「感情的なもの」の多くは、
考えたところでどうしようもない。
それでもグルグルグルグルと駆け巡り、
「不安」や「怒り」に苛まれるようになる。
「こりゃ、あかん」
そう思ったら考えるだけ時間の無駄、
それにイライラする分、健康にも悪い。
良いことは何もないのだ。
「気持ちの整理」なんてものは、
一人で考えたところでできるものではない。
その正体を追いかけるのであれば、
信頼できる人の前ですればいい。
人に話すことで思考は整理される。
「割り切るしかない」
相手がいるものだから、
「感情の問題」は厄介なもの、
そんなものに脳のリソースを使うくらいならば、
楽しみの一つでも見つけたほうがいい。
「行動」を「感情」に合わせるのではなく、
「感情」を「行動」でコントロールするのだ。
「私の時間の使い方は私が決める」
そう強かに生きるのだ。
想像することしかできない、
そんな誰かの感情に思いを馳せて、
心の中にある「負の感情」を育てたところで、
リターンは役に立たないものばかり、
先のことばかりを予測したがるから弱くなる。
どのような悪意をぶつけられたところで、
それに対処できるだけの力強さ。
そういう「ぶっつけ本番力」を育てないといけない。
大丈夫だ。
私はまだ生きている。
たとえそれが意図したものではなくても、
私に「悪意」を向けてくる輩の気持ちに寄り添う必要はない。
まず第一に「反芻思考」を止める。
肝に銘じておこう。
「誠実さ」の中には、
「自分の欲求に対する誠実さ」も含まれる。
私は「誠実さ」を盾にして、
傷つくことを恐れているだけ、
私は私を殺してまで、
「誰かに誠実である」必要はないのだ。
「自我」というものが無くなったら、
どんなに楽に生きられるのだろうか。
だけれども、
「自我」があるからこそ、
「私」は「私」なのだ。
「自分の人生を生きる」ということは、
なんと辛く苦しいものなのだろう。