「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「刹那的な快楽」に身を委ねることについて

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私は人と比べて「刹那的な快楽」とはだいぶ距離を置いた人生を歩んできたと思う。

 

私がたびたび書く表現の一つ、


「誰かを乏して自分よりも下に見ることで自尊心を満たす行いは、下の下の自尊心の満たし方」


この言葉は私の「信念」と言っても差し支えないところにまで、私の中での地位を高めている。


その上で、この「信念」に背くことなく「刹那的な快楽」に身を委ねるのであれば、

私にそれを否定する道理はないのかもしれないと感じた。

 

そのことについて述べてみたい。


「強く儚い者たち」

Coccoさんの楽曲に使われるこのフレーズが言い得て妙だと思い、当ブログでは多用している。

 

人は常に「生きるための理由」を探しているのだ。

それがなければとことん弱くなり、それでいて「その理由を守るため」ならば、とことん残酷にもなれる。

 

生きるために理由が必要な、どこかフワフワした生き物、

それが人間なのかもしれない。


他の生き物はさ。


ベースに「生存本能」があって、そのもとで刹那的快楽を求めて生きているのに「人」だけが違うのだ。

 

「生きる意味」「生きる価値」

「自分は生きていてもいいのか」だなんて考えてさ。

歪んだ地盤の上でバランスを取りながら生きている。

 

少しでもバランスを崩して転んでしまったら、そこから立ち上がるためには途方もない労力が必要、

 

身の安全は保証されていても、心まで満たされていなければ生きてはいけない。

そんな不安定な中で生きている。


だから「刹那的な快楽」


それが生きるために必要なピースであるならば、

それを否定することはできないのかもしれない。


「生きるために必要なもの」


それは人それぞれなのだ。

それを求めて、もがき苦しみながら生をつなぐ事、

それがキリスト教で説くところの「原罪」なのかな。


「命を繋ぐ」だけでは飽き足らず、

そこに「意味」や「価値」や「理由」を求める。


それを満たすために、あるいは抑止するために、

人は「社会」というコミュニティを作り、自らを「法」というルールで縛る。

 

人間だけがある意味では「身体的な弱肉強食」の世界から足を踏み出したのだ。


「社会」はさ。

「ルールを決める側」が損をしないようにできている。

「ルールを決める側」こそが強者なのだ。


それは変えることのできない構図、


飲酒だって性交だってドラッグだって、

法律によって年齢制限を設けられて、

ある地域では違法でも、ある地域では合法ということもある。

 

ルールが力を持つコミュニティに身を委ねることで、

人は自らを縛ると同時に安心を手にした。


だから、そのルールの中で「刹那的な快楽」に身を委ねること、

それは悪いことではないのかもしれない。


それでも私は冒頭に述べた信念に殉ずるのか。

それとも「生きるために必要なピース」を増やすためにそれを破るのか。


「私らしさ」というべきものに人生の価値を見出すのか。

それとも「楽しく生きる」とその日暮らしに身を預けるのか。


詰まるところ「どっちが正しい」と決めるわけではなくバランスの問題なのだろう。


「誠実」と「不誠実」の狭間で揺れながら、

最後は過去を肯定することで「生」をつなぐ生き物、

過去を否定してしまったら生きてはいけない生き物、


それが人間なのかな。

 

「正しい生き方」なんてものは、

死を迎えるその時までわからないのだろう。