私は人と比べて「刹那的な快楽」とはだいぶ距離を置いた人生を歩んできたと思う。
私がたびたび書く表現の一つ、
「誰かを乏して自分よりも下に見ることで自尊心を満たす行いは、下の下の自尊心の満たし方」
この言葉は私の「信念」と言っても差し支えないところにまで、私の中での地位を高めている。
その上で、この「信念」に背くことなく「刹那的な快楽」に身を委ねるのであれば、
私にそれを否定する道理はないのかもしれないと感じた。
そのことについて述べてみたい。
「強く儚い者たち」
Coccoさんの楽曲に使われるこのフレーズが言い得て妙だと思い、当ブログでは多用している。
人は常に「生きるための理由」を探しているのだ。
それがなければとことん弱くなり、それでいて「その理由を守るため」ならば、とことん残酷にもなれる。
生きるために理由が必要な、どこかフワフワした生き物、
それが人間なのかもしれない。
他の生き物はさ。
ベースに「生存本能」があって、そのもとで刹那的快楽を求めて生きているのに「人」だけが違うのだ。
「生きる意味」「生きる価値」
「自分は生きていてもいいのか」だなんて考えてさ。
歪んだ地盤の上でバランスを取りながら生きている。
少しでもバランスを崩して転んでしまったら、そこから立ち上がるためには途方もない労力が必要、
身の安全は保証されていても、心まで満たされていなければ生きてはいけない。
そんな不安定な中で生きている。
だから「刹那的な快楽」
それが生きるために必要なピースであるならば、
それを否定することはできないのかもしれない。
「生きるために必要なもの」
それは人それぞれなのだ。
それを求めて、もがき苦しみながら生をつなぐ事、
それがキリスト教で説くところの「原罪」なのかな。
「命を繋ぐ」だけでは飽き足らず、
そこに「意味」や「価値」や「理由」を求める。
それを満たすために、あるいは抑止するために、
人は「社会」というコミュニティを作り、自らを「法」というルールで縛る。
人間だけがある意味では「身体的な弱肉強食」の世界から足を踏み出したのだ。
「社会」はさ。
「ルールを決める側」が損をしないようにできている。
「ルールを決める側」こそが強者なのだ。
それは変えることのできない構図、
飲酒だって性交だってドラッグだって、
法律によって年齢制限を設けられて、
ある地域では違法でも、ある地域では合法ということもある。
ルールが力を持つコミュニティに身を委ねることで、
人は自らを縛ると同時に安心を手にした。
だから、そのルールの中で「刹那的な快楽」に身を委ねること、
それは悪いことではないのかもしれない。
それでも私は冒頭に述べた信念に殉ずるのか。
それとも「生きるために必要なピース」を増やすためにそれを破るのか。
「私らしさ」というべきものに人生の価値を見出すのか。
それとも「楽しく生きる」とその日暮らしに身を預けるのか。
詰まるところ「どっちが正しい」と決めるわけではなくバランスの問題なのだろう。
「誠実」と「不誠実」の狭間で揺れながら、
最後は過去を肯定することで「生」をつなぐ生き物、
過去を否定してしまったら生きてはいけない生き物、
それが人間なのかな。
「正しい生き方」なんてものは、
死を迎えるその時までわからないのだろう。