面白い記事を読んだ。
何度か機会があり講演を聞いたことがあるが、
なんとも自然体で高い「ぶっつけ本番力」があると感じる。
人を科学すると人からの評価を気にしなくなるのだろうか。飄々と大勢の前で語る姿は清々しさを感じる。
さて、「正義中毒」
記事によると、人は正義を振りかざすことで快楽物質である「ドーパミン」を分泌するようだ。
どこか「社会の一員」として認められたような気持になるのだろう。
誰かの価値を低く見積もることで、相対的に自分の価値を上げようとする。
これまで私が主張してきたところの「下の下の自尊心の満たし方」
加えて「コロナ禍」により行動は制限されて無駄な時間が創出される。
その隙間時間を有意義に活用しようと、手軽なSNSツールの使用頻度が増える。
そこで「満たされない自尊心」を満たすために、社会貢献と銘打って「世論」という正義の剣を片手に「意に沿わない輩」をバッタバッタと切り倒す。
まるで「真・三國無双」さながらだ。
そりゃ、ドーパミンもドバドバと出るだろう。
人は自分が所属するグループを「優れたもの」だと思いたがる。
それにより、「そこに所属する自分」も優れていると思いたがるのだ。
だから「異物」や「劣っているもの」は所属するグループから排斥する。
そうやって「優れたグループ」へと貢献している自分に酔うとともに、自尊心を満たすのだろう。
それが人の性だとすれば、なんとも惨めなものだ。
「惨め」な思いをしたくないがために、かえって「惨めさ」を演出する。
私にも「許せない相手」がいて、可能な限りかかわらないようにしている。
だけれども、関わらざるを得ない関係、
だから時折、無性に「憎しみ」が湧いてくる。
「あんなことをしておいて、よく居座れるな」って、
「早く居なくなってくれればいいのに」って、
そう思ってしまう自分に対して嫌悪感を感じるけれど、
これが「トラウマ」というものなのだろうか。
発作のように負の感情が湧き上がってくるのだ。
一度湧き上がってきたらしばらく止めることができない。
どうやら私の場合は運動をしているときに負の感情が湧き上がってくる傾向がある。
それこそ「ドーパミン」が関係しているのかもしれない。
体を動かすことで興奮状態になる。
「交感神経」が優位となり、途中で目に付くカップルなどをトリガーとして、「惨めさ」という感情が湧き上がってくる。
その「惨めさ」を私にもたらした「象徴」として彼女を捉えることで「憎しみ」がふつふつと湧いてくるのだろう。
今の私が惨めなことは、冷静に考えれば彼女とはそこまで関係ないのに、受けた「不誠実な仕打ち」をいつまでも許すことができないのだ。
記事の最後には、そんな「負のスパイラル」に陥らないための対策を論じている。
「メタ認知」を行い自分を客観視することで「負の感情」の出所を俯瞰する。
あるいは「人間は不完全なもの」であることを受け入れて、正しさや一貫性を求めすぎない。
「メタ認知」は嫌というほどしてきた。
私は人に対して「完全性」を求めすぎているのだろうか。
だからいつまで経っても「許せない」
だいぶ話が逸れたな。
コロナ禍による「正義中毒」の話だ。
「社会」が不安定だからってさ。
その上に乗っかっている「人」だって不安定だ。
だからどこか「自分の存在価値」を信じることができないで、悶々とした時を過ごす人が少なくないのだろう。
私もその一人だと実感している。
だけれども、「ルールを守らない誰か」を貶めたところでさ。
変わるのは「自分の中での順位」だけ、
周りから見た自分の順位は変わらないどころか、「正義マン」のレッテルを貼られたらかえって評判は下がることになるだろう。
「錯覚しているだけ」なんじゃないのかな。
「自分より価値のない人間がいる」って安心したいだけなんじゃないのかな。
「ドーパミン」の作用に振り回されてさ。
自分が「神」にでもなったつもりで鉄槌下しているけれども、客観的に見たら「惨め」極まりない。
結局は「無関心」貫いて、自分がするべきことだけに注力して、為すべきことだけにリソース割いて、そうやって生きていくことが「正しい生き方」なのかな。
それはそれで寂しい感じもするけれど、「手の届く範囲」というものは決まっていて、それをはみ出したところに手を出したところで、浅ましく思えてしまうのかもしれない。
「主体的に生きたい」とは考えているけれど、それは何かを「急進的に事を進める」のではなくて、地に足つけて「地道に前向きに生きていくこと」を指すのかな。
「自分の価値を信じてあげられない」から、「正義中毒」に陥る。
難しいご時世だけれども、どうにか「自尊心」を高める生き方を進めたい。
どこまで行ってもコツコツと、地道にやるべきことを積み重ねていくしかないのかな。
ドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』
前任社長に指名されて急遽、社長に就任した大豆田とわ子さん、
「どう考えても向いていないと思いながら」も、部下や取引先からの圧力に耐えて、経営者としての役割に徹する。
その地道でひた向きな姿に惹かれて、三人の元夫たちは別れた後も彼女から離れることができないのだ。
結局は「自己肯定感」なんてものは何をしたところで満たされることはないのかもしれない。
だけれども、地道でひた向きな人には「人」がついてくる。
「人に誇れる生き方」はできなかったとしても、「人に話せないような生き方」はしたくはない。
しっかりと生きたい。周りのことは関係ない。
自分の足元に注意しながら、しっかりと歩みを進めたい。