「主体性」
それが人生にもたらす効果の大きさについては、
このブログでも散々書いてきた。
「夢のある人」
自分の目指すところがはっきりとしていれば、
人はそれに向かってガムシャラに進むことができる。
例え、辛いこと、苦しいことがあったとしても、
自分の可能性を信じることで、苦難を推進力に変えていく。
「夢のない人」
その場限りで苦難を避けようとするものだから、
「今が楽」であることが至上命題だ。
如何に楽を積み重ねて生きるかを模索しているうちに、目指すものは何もなくなり、人生が受け身に変わっていく。
10年もすれば大きな差がつく。
前者は、その時の夢を叶えられたかどうかはさておき、苦難に立ち向かうことのできるバイタリティを身につけている。
かたや後者は、ほとんど成長のない姿で止まっている。
どこかで「ツケ」を払わなければならないのだ。
人生、なんとかなるのは若いうちだけだ。
自分の力だけで生きていかなければならない時が必ず来る。
その時に「ツケ」に押しつぶされて、それを踏み倒すようになったら最後、自分の可能性など一片も信じることのない、ただ自分の境遇を環境のせいにするだけの惨めな人間の出来上がりだ。
あいつが悪い。会社が悪い。政治が悪い。
自分は悪くない。
「盗んだのはワシではなくワシの右手が勝手にしたことだ」
『鬼滅の刃』に出てきた鬼のように、自分の弱さを受け入れることもできずに、誰かのせいにするだけの惨めな生き物になる。
「夢」と一口に言うと大きさを測ることが難しいけれど、どんな境遇になっても、自分の可能性を信じて、努力する力を身につける必要があるんじゃないかな。
そうじゃないと結局は惨めだ。
自分の人生を肯定できないことほど惨めなことはない。
そのためには、自分で自分を認めてあげられるだけの努力を続けることだ。
私は惨めになりたくないから、努力を続けているのかもしれない。
不満や不安を自分の中から追い出すために必死なのかもしれない。
自分を客観的に見る癖はついたから、どこまでも突き進むことはないと思うけれど、私は積極的に「忙しさ」の中に飛び込んでいる。
「見えている世界」
世界が色鮮やかに見えているのか、
それとも灰色に見えているのか。
私は世界のことをどのように見ているのだろうか。
虹とセピアの割合は如何ほどなのだろうか。
少しでも虹色の割合を増やして生きたい。