成果物を第三者に確認してもらう行為。
いわゆる「レビュー」というやつだ。
今の会社は、ホワイトすぎて逆にブラックかと思えるくらいにガチガチの管理体制なものだから、この手の機会が頻繁にある。
だからレビュアーの質はものすごく高いと思う。
高すぎて、そこに命かけているのかと思う人もいるくらいだ。
「そんなところまでよく気が付くな」と私が思うような指摘をバンバン受ける。
そういうレビューのプロを相手にしていて気が付くことは、
中には「最低でも1つは指摘事項を出さないと気が済まない」という人種がいるということだ。
荒探しのように「そこまでやる必要ある?」と思うようなめんどくさい指摘を受けて差し戻される。
おそらく指摘した本人もそこまで重要とは思っていないのだろう。
「レビューをするからには何か指摘をしなくてはならない」
合理主義者の私からすれば、無駄なことこの上ないと思うけれど、
どうやら、そういう哲学は意外と根強く存在しているようだ。
そこで私が思いついた策は、誰でも指摘しやすいような凡ミスを敢えて織り交ぜておくということ。
中身がしっかりとしていれば、表面的な凡ミスは可愛く映る。
「こんなところでミスしてやんのー」って、レビュアーの自尊心をくすぐる効果もあるのだ。
もちろん中身がしっかりしていなければ、凡ミスまでした上で中身も大したことない「ダメなやつ」
そういう評価を受けるリスクはある。
だけれども、レビュアーによっては、そのリスクを受容してもあまりある効果を感じる。
人は「評価すること」で、自分の存在価値をわかりやすく認識することができる。
だから、やたらと存在感を示すために評価をしたがる人種は多い。
自分で自分の価値を認めてあげられていない人ほど、他人を評価したがるのだ。
転職をしてみて、私の地盤は足元から崩れた。
そんな不確かな足元に気を取られながらも、私は私のことを俯瞰して見ていた。
その経験で得たものは大きいと感じる。
おそらく、私は私の存在価値を、思いのほか大きく見積もっており、それでいて認めているのだろう。
さすがナルシストだ。
あれだけ「ネガティブちゃん」だった私が、いつの頃からか「ポジティブちゃん」に変わっていた。
おそらく「書き続けること」の効果は大きい。
メタ認知をクセにすることで、私は私のことを客観的にみて「高い評価」を与えているのだ。
ニーチェの「超人」にまで高めてしまうと発狂してしまうから気をつけなければならないけれど、自尊心はできるだけ高いところでキープしておいた方がいい。
それが「人生を楽しむための原動力」となりやすいことは、おそらく皆さんも実感していることだろう。
「誰かを評価すること」
無意識のうちに誰もが、周りのあらゆることを評価して生きている。
しかしながら、その行為によって自尊心を傷つけている側面もあるのかもしれない。
誰かと比べて優れていれば「自尊心は満たされる」
劣っていれば「満たされない」
周りの環境に左右されて、右往左往する自尊心では、何をするにしても、周りの顔色ばかりを窺う人生になってしまう。
私は、評価をするし、評価をされる。
それを止めることはできないけれど、評価によって自分の価値を推し量るようなことはしない。
それがメンタルを強く保つ秘訣。
別にさ。実力さえあれば、どのような環境に飛び込んでも生きていけるのだ。
だから、必要だと思うスキルを身につけて、自分の思う、自分の価値を高め続けていけばいい。
そっちの方が、素敵な人生を生きられる。
無駄なことは極力したくない。
だから、手間暇かけずにレビューを通すために、私は「おっちょこちょい」になる。
本当に「おっちょこちょい」なだけ、
そういうこともあるのだけれども、
理由をつけて、少しばかりカッコつけてみよう。
自尊心を保つためには、思い込みも必要なのだ。