どんなに苦しい状況でも、
「いい方向に向かう」と信じて生きている人は、
ある意味では「自分の人生を愛している」のかもしれない。
「根拠のない自信」
人は「経験を信仰する生き物」だから、
これまで培ってきた成功体験、
それを確固たるものとして大事にしている人は、
それが土台に鎮座されていて、
大きな揺れがあったとしても、
その衝撃を緩和してくれるのだろう。
「成功習慣」としてよく目にするけれど、
一日の終わりにはその日にあったポジティブなことを思い出して、
自己肯定感を高めてから就寝するといいらしい。
一種の自己暗示だ。
「自分の人生はうまくいっている」
「自分は人生をコントロールできている」
「今日も一日これだけ人生が前に進んだ」
そうやって「幸せな一日」を演出することで、
人生に意味があるように思えてくる。
大した成功体験でなくてもいい。
人は「できなかったこと」ばかりに囚われてしまうから、
敢えて「できたこと」にフォーカスすることで幸せを感じるのだ。
もうさ。
なんでもいい。
なんでもいいからさ。
「満たされている」と感じたい。
「渇く」
とにかく「渇く」のだ。
どんなに一日の終わりに「幸せな人生」を演出してみても、
この「渇き」を潤してくれることはない。
「惨めさ」を感じながら過ごして、
「惨めさ」で夜中に目が覚める。
進む見込みのない関係だったのに、
唯一繋がっていた女性とのやり取りを断ち切っただけで、
こんなにも「惨めさ」が増すとは思わなかった。
いつだって、ないものねだり、
どれだけ「自分らしさ」なるものを探求したところで、
誰かと比べてばかりいるからさ。
周りから取り残されたような欠落感を感じて、
そのポッカリと空いた穴に魅了されて、
その穴こそが自分なんだって、
そのに妙な使命感なんか感じちゃってさ。
悲劇の主人公を気取ることが生きがいになって、
足りないところばかりを注視するようになる。
「先のこと」ばかり考えているくせに、
その「先のこと」に希望を見出すことができない。
なんのために健康管理をしているんだろうね。
なんのためにお金を貯めているんだろうね。
「幸せ」ってなんだろうね。
「今の自分を肯定できていること」なのかな。
「自分の将来に希望を持ち続けられる」ってことなのかな。
それとも、その両方なのかな。
自ら「幸せな人生」を演出するために、
いくら「自己暗示」を続けたところで、
それを「自己暗示」だと思っているうちは暗示にかからないのだろう。
「こうすれば幸せになれるよ」って言われたら、
無条件にその言葉を受け入れられるくらいに素直であれば、
こんなに悩まなくてもいいのだろうか。
それはそれで別の悩みが出てきそうだけれども、
「根拠」なんて全くなくていいから、
心の底から「大丈夫だ」って、
自分の将来に希望を持ち続けられるようになりたい。
そうじゃないと、あまりにも辛いから、
もう悲劇の主人公を気取るのには飽きた。