「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「自信がある」ということの功罪

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「自信があること」によって人生が豊かになることもある。

「自信があること」によって人生を破滅させてしまうこともある。


「自信」というものは何とも厄介なものだ。


無ければ「卑屈」になってしまうし、

余ると「傲慢」になってしまう。


コントロールしようとしたところで難しく、

他人の評価によって簡単に乱高下する。


「自信論」とでもいうべきか。

「自信」に対する捉え方も人それぞれだろう。


「あったほうがいい」と思う人もいれば、

「ないほうが期待せずに済む」と考える人もいる。


即ち「自信」には功も罪もあるのだ。

そのことは十分に承知しなければならない。


私はおそらく「自信家」なところがある。


「あなたは自信家ですか?」と問われたならば、

おそらく5段階中の4、10段階ならば7くらいの回答をするだろう。


そのくせ「ガラスのハート」の持ち主だ。

少しは耐衝撃加工をしているから「強化ガラス」くらいにはなっているかもしれないが、

間に針金を用いていないため、耐久度を超える衝撃を受けると砕け散る。


「プライド」はズタズタに引き裂かれ、

修繕するまでに多くの時間を要するのだ。


私の「男としての自尊心」は、

修繕をしている最中から、それを待たずに何度も壊されたものだから、

もはやどこから手を付けていいのかわからない有り様だ。


つまり、私は「自信」を持つことによって、

私の人生に「実力以上の期待」をしていたのだろう。


しかも「ガラス」を強化していた分、

ひびが入っても「まだいける」「まだ大丈夫」って、

諦めることをしなかった。


それどころか女性とのアポを取り続けて、

「禁欲」に取り組んだりなんかして、

さらに前に進もうと、どんどん重りを増やしていった。


それで結果が出ていれば、

ひとまずは「ハッピーエンド」となったのかもしれない。

だけれども、そううまくはいかないのが「私の恋愛」なのだ。


そして私はようやく「期待」を捨てることができた。

現在は将来のことに対して割とニュートラルな感情を抱えている。


それでも「自信」を捨てたわけではない。

積み重ねてきた「経験」というものは確かに私の血肉となったし、

取捨選択を迫られた分だけ「残ったもの」は洗練されたように思う。


ここに何か新たなものを積み上げられるかどうかはわからないけれど、

そうした欲求は日に日に薄まっているような気がする。


「自信」というものはコントロールできない。

それならば、それに振り回されるような生き方は辞めよう。


「自信がある」とか「自信がない」とか、

もはやどうでもいいことなのだ。


「やるべきこと」はやるし、

「やらなくていいこと」はやらない。


「自分の存在価値を確かめるため」に、

「自信」を都合よく使うようなことはしてはいけないのだ。

そうなったら「自信」の思うつぼだ。


「感情」よりも「目的」

「自尊心を満たす」よりも「成果」だ。


「自信」なんて不確かなものに、

手持ちをベットしすぎてしまったら、

負けた時のダメージは取り返しのつかないほど大きくなる。


「自信」に振り回されてはいけないのだ。