「人生は劇だ」
よく聞く言葉だけれども、
劇作家であるウィリアム・シェークスピアの言葉が有名らしい。
「yahoo!知恵袋」によると、詳しくはこうだ。
「全世界は一つの舞台であり、すべての男と女はその役者にすぎない。
彼らは退場があり入場があり、ひとりの人間が一度の登場で多くの役を演じる。 」
原典を読んだわけではないけれど、
なんだか妙に「心に残る言葉」だ。
「喜劇」を演じる時もあれば、
「悲劇」を演じる時もある。
辛くて、苦しくて、惨めで、
自分の価値を肯定できない時もあるだろう。
だけれども、私は「そういう役」を演じているのだ。
巡り巡ってまた「幸せ」を感じられる時が来る。
そう考えると、なんだか「希望」を持てる気がする。
自意識が大きくなりすぎて、どこか視野が狭くなって、
まるで「自分は世界で一番不幸なんじゃないか」って、
そう思えてくる時もある。
そんなときに、ふと自分を客観視してみると、
「なんてことはないな」って、そう思えることも少なくない。
内面からばかり自分を見ていると、
その「世界」が全てのように思えてしまう。
だから、どこにも行く場所がなくて、
今が「満たされない」と、すべてが終わったように思えてしまう。
「終わってなどいない」のだ。
私は「手に入らないもの」にばかり固執して、
「平均」と言う魔物に追いかけられて、
「自分の人生」を傷つけてきたのかな。
精神的自傷癖、
それを作品にまで昇華できる人ならば、
そんな厄介な特性にも文学的価値があるだろうけれど、
私のような凡人がそれを続けたところで、どこかに辿り着く気はしない。
主体的になりすぎてもいけないし、
人生に責任を負いすぎてもいけないのかな。
ある意味では「大いなるもの」に運命を委ねて、
与えられた役割を楽しみながら演じていればいい。
そういう感覚は大事なのかもしれない。
イワン創作の「天上のパンと地上のパン」の話、
「神のいない自由」を謳歌できるものはほんの一握りしかいない。
だから教会は敢えて権威主義的な「神」を作り出して大衆に「生きる目的」を与える。
教会は「高尚な精神」によって救われることのない多くの民衆を救ってきた自負がある。
だから突如現れた「神らしき存在」に対して「いまさらお前は出てくるな」
今更出てきて「教義から何かをなくすことも付け加えることも許さない」と言い放つ、
人は「高尚な精神」よりも「生きるための糧」を求めているのだ。
だから「役割」を与えられて、それにより「糧」を得る。
それより上に至るのは、ほんの一握りだけ、
人生なんてものは、その先に何か大きなものを期待するでもなく、
クルクルと移り変わる「ロールプレイ」を楽しめばいいのだろうか。
「飽食の時代」「死が遠ざかる時代」
それがまた厄介なのだ。
人間に余計なものを考えさせる。
その「余計なもの」に耐えられる人は人類にどれだけいるのだろう。
人が人として生きることの意味、
自分なりにその答えを見つけ出すことが、
おそらくこれからの人類に与えられた大きな課題なのだろう。