「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「人生は劇だ」と言う方向へと「自分の人生」を昇華させたい

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「人生は劇だ」


よく聞く言葉だけれども、

劇作家であるウィリアム・シェークスピアの言葉が有名らしい。


yahoo!知恵袋」によると、詳しくはこうだ。

「全世界は一つの舞台であり、すべての男と女はその役者にすぎない。

彼らは退場があり入場があり、ひとりの人間が一度の登場で多くの役を演じる。 」


原典を読んだわけではないけれど、

なんだか妙に「心に残る言葉」だ。


「喜劇」を演じる時もあれば、

「悲劇」を演じる時もある。


辛くて、苦しくて、惨めで、

自分の価値を肯定できない時もあるだろう。


だけれども、私は「そういう役」を演じているのだ。

巡り巡ってまた「幸せ」を感じられる時が来る。

そう考えると、なんだか「希望」を持てる気がする。


自意識が大きくなりすぎて、どこか視野が狭くなって、

まるで「自分は世界で一番不幸なんじゃないか」って、

そう思えてくる時もある。


そんなときに、ふと自分を客観視してみると、

「なんてことはないな」って、そう思えることも少なくない。


内面からばかり自分を見ていると、

その「世界」が全てのように思えてしまう。


だから、どこにも行く場所がなくて、

今が「満たされない」と、すべてが終わったように思えてしまう。


「終わってなどいない」のだ。


私は「手に入らないもの」にばかり固執して、

「平均」と言う魔物に追いかけられて、

「自分の人生」を傷つけてきたのかな。


精神的自傷癖、


それを作品にまで昇華できる人ならば、

そんな厄介な特性にも文学的価値があるだろうけれど、

私のような凡人がそれを続けたところで、どこかに辿り着く気はしない。


主体的になりすぎてもいけないし、

人生に責任を負いすぎてもいけないのかな。


ある意味では「大いなるもの」に運命を委ねて、

与えられた役割を楽しみながら演じていればいい。


そういう感覚は大事なのかもしれない。


ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』で出てきた、

イワン創作の「天上のパンと地上のパン」の話、


「神のいない自由」を謳歌できるものはほんの一握りしかいない。

だから教会は敢えて権威主義的な「神」を作り出して大衆に「生きる目的」を与える。

教会は「高尚な精神」によって救われることのない多くの民衆を救ってきた自負がある。

だから突如現れた「神らしき存在」に対して「いまさらお前は出てくるな」

今更出てきて「教義から何かをなくすことも付け加えることも許さない」と言い放つ、


人は「高尚な精神」よりも「生きるための糧」を求めているのだ。

だから「役割」を与えられて、それにより「糧」を得る。

それより上に至るのは、ほんの一握りだけ、


人生なんてものは、その先に何か大きなものを期待するでもなく、

クルクルと移り変わる「ロールプレイ」を楽しめばいいのだろうか。


「飽食の時代」「死が遠ざかる時代」

それがまた厄介なのだ。


人間に余計なものを考えさせる。

その「余計なもの」に耐えられる人は人類にどれだけいるのだろう。


人が人として生きることの意味、


自分なりにその答えを見つけ出すことが、

おそらくこれからの人類に与えられた大きな課題なのだろう。