光文社の亀山訳で読んでいる。
昔一度挫折した記憶があるけれど、
この訳は現代的でとても読みやすい。
第2巻の中で次男イワンが、
三男アレクセイに自作小説のことを語るシーン、
腐敗した教会の権力者、
その葛藤が印象的だった。
教会が腐敗していることを本人は自覚している。
それでありながら、
「神が地に降りてきたと思われる存在」に対して語る。
「お前はいまさら何の邪魔をしに我々の前に現れたのだ。
お前が過去に言ったことを訂正したり、
それに何かを付け加えることなどいまさらできない。
お前が与えた自由によって救われるのは、
お前を何があっても信じ切ることができるほんの一握りだけだ。
多くの民は自由を持て余して路頭に迷う。
我々はその自由を取り上げることで、
その多くの民を救ってきたのだ。
そしてようやくここまで来た。
いまさら我々の邪魔をするな。」
そのような要旨、
これって国も同じだ。
弱肉強食の世の中から、
人類は秩序を作るためにコミュニティを広げていった。
そしてある意味では「自由」を搾取して、
「規律」を与えることで安心や安全を作り上げたのだ。
「自由」
キリスト教の価値観では、
生きる目的を見失う迷える子羊に、
「神への帰依」という道しるべを与えることだろうか。
だけれども私は、
「自由」=「自立」と考える。
何かを手本にしてもいいし、
何かに頼ってもいいけれど、
自分で自分の生きるの道しるべを見つけること、
それだけは譲ってはいけないんじゃないかな。
自分で自分の行いや行く末に責任を持つこと、
「自由」ってそういうこと、
今の世の中は過去に類を見ないほど、
社会は民衆に「自由」を与えている。
ジェンダーのことや職業選択のこと、
社会構造そのものが、
少なくとも目に見える範囲ではそちらの方向に進んでいる。
だけれども自己責任なのだ。
全ては自己責任なのだ。
会社にしがみついていれば一生安泰、
そういう時代は終わった。
個人として財を成す。
幾分間口は広がったけれど、
リスクは大きい。
どちらの選択も自己責任だ。
だけれども「自由」なのだ。
だから私はいま社会から投げかけられている、
「多様性」という名の「自由」に耐えられる一人でありたい。
そして、その「自由」を謳歌したいと思う。
「言われたことしかできない」
そんな人生なんてまっぴらだ。
だけれども「自立」しない「自由」もある。
それだけは忘れないようにしないと、