「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

与えられた自由に耐えられる一人でありたい

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ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟

 

光文社の亀山訳で読んでいる。

昔一度挫折した記憶があるけれど、

この訳は現代的でとても読みやすい。

 

第2巻の中で次男イワンが、

三男アレクセイに自作小説のことを語るシーン、


腐敗した教会の権力者、

その葛藤が印象的だった。

教会が腐敗していることを本人は自覚している。


それでありながら、

「神が地に降りてきたと思われる存在」に対して語る。


「お前はいまさら何の邪魔をしに我々の前に現れたのだ。

お前が過去に言ったことを訂正したり、

それに何かを付け加えることなどいまさらできない。

お前が与えた自由によって救われるのは、

お前を何があっても信じ切ることができるほんの一握りだけだ。

多くの民は自由を持て余して路頭に迷う。


我々はその自由を取り上げることで、

その多くの民を救ってきたのだ。

そしてようやくここまで来た。

いまさら我々の邪魔をするな。」


そのような要旨、


これって国も同じだ。

弱肉強食の世の中から、

人類は秩序を作るためにコミュニティを広げていった。

そしてある意味では「自由」を搾取して、

「規律」を与えることで安心や安全を作り上げたのだ。


「自由」


キリスト教の価値観では、

生きる目的を見失う迷える子羊に、

「神への帰依」という道しるべを与えることだろうか。


だけれども私は、

「自由」=「自立」と考える。


何かを手本にしてもいいし、

何かに頼ってもいいけれど、

自分で自分の生きるの道しるべを見つけること、

それだけは譲ってはいけないんじゃないかな。

 

自分で自分の行いや行く末に責任を持つこと、

「自由」ってそういうこと、

 

今の世の中は過去に類を見ないほど、

社会は民衆に「自由」を与えている。

 

ジェンダーのことや職業選択のこと、

社会構造そのものが、

少なくとも目に見える範囲ではそちらの方向に進んでいる。

 

だけれども自己責任なのだ。

全ては自己責任なのだ。

 

会社にしがみついていれば一生安泰、

そういう時代は終わった。

 

個人として財を成す。

幾分間口は広がったけれど、

リスクは大きい。

 

どちらの選択も自己責任だ。

だけれども「自由」なのだ。


だから私はいま社会から投げかけられている、

「多様性」という名の「自由」に耐えられる一人でありたい。

そして、その「自由」を謳歌したいと思う。


「言われたことしかできない」

そんな人生なんてまっぴらだ。

 

だけれども「自立」しない「自由」もある。

それだけは忘れないようにしないと、