「パーソナリティが肥大化した時代」
その象徴的ともいえるテーゼだ。
「世界を疑う人」が増えたように感じる。
少なくとも江戸時代までの日本は、
明確に身分が決められていて、
「お上の意向は絶対」だから、
ただ言われたとおりに生きていればよかったのだ。
そしてそれは維新後も続き、
大戦の導火線とも無関係ではないだろう。
そして戦後の日本人もまた、
その民族性を捨て去ることはできず、
「社畜」という形で士官先への忠誠を誓う。
今の時代は「情報」は一庶民にまで開かれて、
個人間での「情報格差」は格段に少なくなった。
だから「数字」の持つ力は大きくなり、
その「数字」が世論の象徴として鎮座する。
だから「政府」にしたって、
それを無視することはできなくなり、
「数字の奴隷」としての色彩を強めてきたし、
世論を軽く見た権力者たちは次々と失脚していく。
本当の意味での民主主義って、
もしかしたらこういうことなのかな。
いや、なんだか違う気がするな。
拭えない違和感、
これではアイドルの人気投票と変わらない。
「政治」が「生活」に密接にかかわるという実感の希薄さ、
おそらくそこに病理があるのだろう。
だからみんな「政治」からはそっぽを向いて、
「生活」に密着した「会社」なりに依存先を求める。
それも一回りしてしまったものだから、
「自らのパーソナリティ」に従って、
アイドルやらYouTuberやら、
いわゆる「推し」に依存先を求める。
結局は「人の本質」が変わったわけではなく、
変わったのは「生活に根差したもの」
それがあまりにも多様化しているのだ。
だから「おかしい」ってことについても、
その基準が「あいまい」になっている。
「おかしい」
おかしくない人間なんていない。
みんな着ぐるみ着てさ。
「おかしくない」ように見せているだけ、
見えないところでは、
恥ずかしい姿であんなことやこんなことをして、
変なものに興奮することもあるだろう。
さも常識ぶっている堅物のあの人も、
優等生キャラで清純派を気取っているあの女優だって、
みんなどこか「おかしい」のだ。
みんながこれまでの経験から何かしらの依存先を見つけて、
みんながそれに右往左往して生きている。
「価値観」だとか「生きざま」だとか、
場合によっては自分の外にあるものに対しても、
自分が何を感じて、
それによってどう生き方を変えるのか。
そしてその先にあるものにどう責任を取るのか。
「おかしい」か「おかしくない」か。
そんなことはどうでもいいのだ。
自分だっておかしければ、周りだっておかしい。
おかしい人たちの作り上げた世界だからおかしくないはずがない。
なんでもかんでも「おかしい」「可笑しい」って、
笑いながら過ごしていればいいのだ。
おかしな「自分」がおかしな「世界」の中で、
どう「可笑しく」生きていくのか。
それが人生の醍醐味なのかもしれない。