ある記事を読んで考えさせられた。
「愛社精神」なんてものは労働条件の悪化により一瞬で崩壊するというものだった。
私は「愛社精神」というものに対して一定の価値を認めていた。
今は「会社にしがみつく時代」ではない。
基本線としてはそういう考え方だけれども、どうしたって「好き嫌い」はあって、経営者や職場環境、共に働く仲間など、そこに対する「愛着」の有無によってモチベーションは大きく左右されると感じている。
だから「自分のいる環境」を愛せるかどうか、
それを「愛社精神」という言葉で認識していたのだろう。
だけれども、そういうものは「会社の経営」が傾けば一瞬で価値を失ってしまうのだ。
どれだけ「恵まれた環境」で働くことができたとしても、先立つものがなければ「労働」の動機にはならない。
今は産業構造が目まぐるしく変化している時代だから、どの業界に入ったとしても確実に安泰ということはないのかもしれない。
それでも、実際に収入が上がらなかったり、会社の将来に陰りが見えてきたりしたら、少なくとも「思うところ」は出てくるだろう。
どれだけ「確固たる立場」即ち「立派な家」を建設したとしても、地盤そのものが揺らいでしまったら、そこに長く住むことはできないのだ。
そして「家を建てた経験」というものは確かに自分に積み上がるかもしれないけれど、その家を丸ごと別の地盤にもっていくことはできない。
なかなか世知辛い話かもしれないけれど、「立派な家」を建てるよりも先に、「どこに家を建てるのか」ということも意識しなければならない。
地割れが起きて家ごとのみ込まれてしまったら、土地に対する愛着も何も関係なく転居を余儀なくされるのだ。
「愛社精神」
それは「虚像」に過ぎないのかな。
そこで過ごした時間は確かにかけがえのないものとして残る。
「経験」として積み上がっていくことは間違いない。
例え、その場所を離れたとしても絆は決して消えることはない。
そんな「青臭い主張」で救われる気持ちもある。
「愛社精神」
それは外的要因にして一瞬で崩れ去るほど「儚いもの」かもしれないけれど、人が生きるには、所属するには、何か理由が必要なのだ。
「愛社精神」というものが虚像だとしても、もしかしたらそれは「動機」として必要なものなのかもしれない。
感情のままに、気持ちの向かうがままに、自分を肯定してあげることは難しいことだ。
「無条件に自分を信じること」が苦手な私たち、
何かに「所属していること」が、この世にいてもいい「理由」の一つになる。
そうやって「理由」をいくつも拾い集めながら、「生」を繋いでいるのだ。
「理由」は一つでも多いほうがいい。
「理由」がなくなってしまったら、「生きること」が追いかけてくるようになる。
「生」に追いつかれてしまったら、「生きるために生きる」ようになる。
何かに別のことに夢中になっているうちに「生」を全うしたい。
「死」は追いかけてこない。
我々は「死」に向かって進んでいるのだから、
なんだかタイトルと論点がずれてしまったな。
悪しからず、