鋭利な刃物で刺されて、
そこからさらに抉られる。
読むだけで「痛い」と感じる文章に出会うことがある。
その多くは「心の叫び」
声にすることは叶わないけれど、
誰かに届いてほしくって、
形として残された言葉たち、
誰かに届いたところで、
その言葉たちは役目を終えることはない。
「形に残す」ということは、
作った本人がこの世にいなくなったとしても、
残り続けるということ、
二階堂奥歯『八本脚の蝶』
前に記事にしたけれど、
25歳でこの世を去った著者のあまりにも不器用に「生」と向き合う様、
身体的には「生きる」に事欠かない現代日本でこれほどまでに苦しむ。
その姿を想像すると容易に「死」を肯定できてしまいそうなくらいだ。
「生きた証」を残したかったのか。
彼女は自らの言葉でブログを締めくくるが、
閉鎖することはなかった。
彼女の文章は今でもネット上に残り続けている。
「生きるに足る理由」
危険な領域に踏み込むことになるけれど、
人は「死ぬ理由がないから生きている」
「生」を実感することなく、
「死」を実感することもなく、
ただただ時を重ねている。
「人生の大半は自由時間」
そういうCMがあった。
ライフステージが進まないと、
あまりにも自由な時間を持て余しすぎて、
「虚しさ」ばかりが募るようになる。
今の私は「生きる理由があって生きている」のか。
それとも「死ぬ理由がないから生きている」のか。
もはや、どちらかもわからない。
親に対する責任はあるから、
先に死ぬわけにはいかないと思うけれど、
その他に誰に対する責任があるわけでもない。
少し前に3人の子供を抱える友人が話していた、
「俺は子供たちのためなら何でもやるよ」という言葉、
なんとも「素敵な響き」として脳裏に蘇る。
コロナ禍が助長していることもあるけれど、
ライフステージが変わるにつれて友人との接点は減っていく。
一人で過ごす時間が増えたものだから、
実家に帰っては時折、姪や甥と遊ぶことで、
進まないライフステージの慰めにしている。
「何もない」
社会における役割はあるかもしれないけれど、
それは代替の効くものだ。
私でなければならない存在意義、
そういうものがあまりない。
異性として愛されることはなく、
パートナーに対する責任や、
親としての子に対する責任、
そういうものが全くないのだ。
幸い「楽しい」と思えることはあるけれど、
その何倍も「虚しい」と感じる時を耐える。
老後に向けてコツコツ蓄えて、
健康管理に時間を費やしてはいるけれど、
それも何のためだかわからない。
私は私の将来に何を望んでいるのだろうか。
必死に遅れた「恋愛経験」を取り戻そうとしてきたけれど、
出会いの数を重ねても関係が進むことはなかった。
もちろん臨む相手と結ばれる魅力がなかったのだろうけれど、
心の底から私がそれを求めていたのかもわからない。
売れ残った挙句に期待値ばかり高くなり、
妥協できないという悪循環、
私が求めているのは「自尊心を満たすこと」なのかもしれない。
相手の容姿やら年齢ばかりを気にしてさ。
もはや何を求めているのだろう。
文章が雑多になってきたな。
話を戻そう。
「生きるに足る」理由と「死に至る」理由、
深く考えるほど深みにハマる気がする。
月並みだけれども「気がついたらその日を迎えている」
そういう終わり方が理想なのかもしれない。
将来のことを考えすぎても悩みは尽きないし、
逆だと取り返しのつかないことになるかもしれない。
結局結論は出ないのだけれども、
「多くの人は理由があって生きているわけではない」
加えて「明確な意思を持って死を選ぶ人は稀有である」
その辺りは間違いなさそうだ。
何が書きたかったのかわからなくなったな。
とにかく今は次のステージに向けて生活を変える必要がある。
これまでと同じやり方ではいけないのだ。
そのことに必死になって、新たな居場所を確立すること、
それが今の私にとっての挑戦、
それが「生きるに足る理由」になるのかな。