誰かの「居場所」となること、
それと同時に誰かが「居場所」であること、
それは人が「生きるため」に十分な理由となる。
不安の渦巻く世の中だから、
どこか未来に希望を持てない風潮が蔓延る。
そうなってくると、
自らの行く末や、子孫がいればその行く末、
そういうものに対して悲観的になってしまう。
どれだけ悲観しても先のことはわからない。
世の中に溢れる未来に対する報道、
それが確かな証拠はどこにもないのだ。
それなのに、何処か刷り込みのように、
人は未来を悲観して、
どこか疲れたような表情をして、
将来への準備にばかり躍起になる。
今使えるお金をせっせと後ろ倒しにして、
未来への不安を解消するために使う。
積み上がる数字の魔力に魅せられている部分もあるのかもしれないけれど、
未来に対して明るい見通しを立てられれば、人はそうした行動には進まないだろう。
いや、積み立て投資に関しては逆も言えるのか。
株価が上がる見込みだからこそ経済に投資する。
そういう見方もあるけれど、この際それは置いておこう。
「不安」は人の感情を逆撫でる。
考えれば考えるほど「不安」は押し寄せてくる。
それは人の本能だ。
自己防衛本能からくるもの、
だからある程度は仕方がないのかもしれないけどさ。
遠い先の未来に対しては、
出来るだけ「希望」を持ち続けて生きたい。
自分だけが逃げ切れれば良いのかな?
自分が生きている間だけ地球が保てば良いのかな?
そんな生き方はまっぴらだ。
企業がこぞって掲げる社会貢献の実績、
なぜ掲げるのかというと、
「掲げること」に利があるからだ。
今の若者たちは社会貢献に対する関心が強い。
仕事を通して社会に「価値あるもの」を提供したいという気持ちが強い。
若者たちと接していてそう感じる。
「最近の若者は」だなんて、悪い意味で言われることが多いけれど、
「自分がいる間だけ逃げ切れれば良い」と考えている年寄り達よりは、若者たちは余程未来のことを真剣に考えている。
「死」に怯えてばかりで、
命を先延ばしにすることばかりに躍起になる。
「命」は大事だけれども、
その「命の使い方」
それも同じくらい大事なんじゃないのかな。
もっと未来に目を向けてさ。
自分がいなくなった先にまで目を向けてさ。
そこに対して「希望」を持ちながら生きるということが、大切なんじゃないかな。
そうじゃないと、結局は「独りよがり」で終わってしまう。
「自分さえ良ければいい」って生き方、
そういう人生になってしまう。
何を成せるわけではないかもしれないけれど、
「人類の行く末に希望を持つ」
ちゃんと人として生きる上で、
それだけは忘れてはいけないんじゃないのかな。
私はそう在りたいと思う。
大したことはできないかもしれないけれど、
私は最後までそう在りたいと思う。