誰かの評価に身を委ねる生き方、
そういう生き方をしている人、
誰からも好かれているようだけれども、
一つの綻びで全て台無しになるリスクを内在している。
誰しも、ある程度は繕う。
それは自然なこと、
欲望剥き出しのまま社会で生きることは難しい。
だけれども、そこでの成功体験を元にして、
そこに自分の価値を委ねるようになる。
「自分は周りとうまくやれているんだ」
「周りから良い人だと思われているんだ」
「だから、ここには自分の居場所があるんだ」
そうやって、居場所を確保するために躍起になる。
別にそこだけが自分の「居場所」なわけではない。
自分で自分の事を雁字搦めにしているのだ。
どのような環境にいても、
自分で自分の居場所を確保できる強さ、
それを養っていく方が余程いい。
もちろん、周りとの関係を蔑ろにしていいというわけではない。
周りとうまくやっていくことは大事なことだ。
「余裕のあるふり」
そこまでする必要はないんじゃないの?
私が書きたいのはそういうこと、
大変ならば「大変だ」って伝えて助けてもらえば良い。
そして助けてもらったならば、心の底からの感謝を伝えれば良い。
「好意の返報性」
誠実に相手と向き合っていれば、相手がよほどのクズではない限り、関係性がおかしくなることはない。
一人一人とそういう関係を結んでいく中で、
その中で「居場所」というものは作られていくんじゃないのかな。
あくまでも「1対1」なんだよ。
人との関係ってものはさ。
どんなに大きな組織に所属していたとしても、
大事にするべきなのは目の前の一人なんだよ。
目に見えない有象無象に振り回されてばかりいないでさ。
目の前の一人に誠実であり続ければいい。
それさえしっかりとできていれば、大抵どこでもやっていけるのだ。
だけれども、それを「居場所を確保するための手段」にしてしまうと、
また「おかしなこと」になってくる。
人は「自分の扱われ方に敏感な生き物」だから、
手段として扱われていることにすぐに気がつくのだ。
結局のところ、人間性を養うしかない。
いろんな経験をして、いろんな苦労をして、
いろんな立場の人の気持ちをわかるようになるしかない。
相手の気持ちを想像することはできても、
経験することはできない。
だから、自分の経験を元にして、相手の気持ちを想像するしかない。
その精度を高めるためには、いろんな経験をするしかないのだ。
目の前の課題、
悲しみや苦しみと向き合って、
それを己の糧にし続ける。
その大変な作業を根気強く続ける。
その地道な作業の中にのみ、
人間性は養われていく。
「偉人は決まって謙虚」
よく言われることだけれども、
その人が慕われる人物でなければ、
その弟子なり周りの人たちが、
その人のことを後世に語り継ごうとは思わないのだから当たり前のこと、
歴史に残りたいわけではないけれど、
お世話になった人たちに、
周りの人たちに、
感謝を忘れずに生きたい。
その積み重ねが「生きた証」となる。
その積み重ねが「生きる意味」となる。
その積み重ねの中に、
本当の「余裕」が生み出されるんじゃないのかな。