どこか「儀式」めいたもの、
一つの区切りをつけるためにはそういうものが必要なのだ。
転職を控え、その「儀式」たるイベントまで済ませた私は、どこか抜け殻のようになってしまった。
仕事をしていても身が入らないのだ。
少し前まではノスタルジックな気分に浸りながら、
残りの期間を楽しむかのように精力的に働いていた気がする。
今はノスタルジーは残りながらも、それに引っ張られ過ぎているのか。
あるいは、周りとの接し方に戸惑いを感じているのか。
どこか主体性を欠いた仕事をしている。
先日は「感謝をもって引き継ぎにあたる」だなんて書いていたし、
私は自分のことをそういう性質の人間だと思っていたけれど、
ふと「自分には関係ない」と手を抜いている瞬間があることに気付く。
確かにこの後に及んで私がでしゃばることは、後のことを考えてもあまり宜しくはない。
だけれども、そうした計算によるものではなく、単純に気持ちが切れているように感じる。
昨日のオリンピックサッカー、フランス代表、
日本が2点目をとるとオーバーエイジの選手は自ら交代を求めて引いていった。
怪我をした素振りだったけれど、
若い選手の出場機会を作るためだったのだろう。
「後に残る人たち」
もはやその人たちが主役なのだ。
今の職場における私の仕事は幕引き、
幕を下ろして、幕を上げる。
そして幕が上がるのを見届けたら去っていく。
章の変わり目になくてはならない存在だ。
そう考えれば「やりがい」を見出せるのかもしれない。
完全に気持ちの問題だ。
私もまだまだだな。そう感じる。
気持ちの糸がプツリと切れてしまったのだろうか。
いや、それとは少し違う気がする。
引き継ぎを行いながらも、何事もなかったかのように日常業務をこなしている。
この感じが決意を揺るがすのだろう。
「儀式」を経て、どこか「割り切った気持ち」でいるのに、やっていることは変わらない。
まるでこのままずっとここで働くかのようだ。
そのギャップが何だか「やる気」につながらないのかもしれない。
困ったものだ。
「強制力」がなくなると、こんなにモチベーション管理ができないのかと実感する。
私は自分のことを割と「ストイック」だと思っていたけれど、そうでもないのかもしれない。
中途半端に気持ちが離れてしまったものだから、
心と環境に乖離が生じている。
このままだとふわふわした感じで最後を迎えるのだろう。
何か自分で「変化」をつけていかなければならない。
徐々に「非日常感」を出していかなければならない。
「イレギュラーに対しても淡々と」
そういう習慣が身についてしまったからだろうか。
今の私に「非日常感」を感じさせることはなかなかに難しい。
この5年くらいで色んな経験をしてきたものだから、
何か「イレギュラー」があっても「こんなものか」って、どこか割り切ってしまうようになった。
何か予想を大きく裏切るような、
そんな経験を求めているのだろうか。
「健全」で「非日常」
そんな経験はどこかに転がっていないだろうか。
とりあえず今はオリンピックに夢中だ。
これも一つの「非日常」
それくらいでちょうどいいのかもしれない。