今やコンテンツは大量生産・大量消費される時代だ。
だから作品の方から「見てください」とアピールする必要がある。
そうでもしないと誰の目にも止まることなく淘汰されていく。
かねてより出版業界ではこういう構図は当たり前だったけれど、
映像コンテンツまでそういう状況へと進んでいることは間違いない。
YouTubeやTikTokなど、個人が映像コンテンツを大量に生産する時代、
数億円かけて作られた2時間の映画もそれらと同じ土俵で勝負させられるのだ。
「見せるための技術」
そういうものは飛躍的に発展した。
個人で撮影用の機材をそろえるのは当たり前だし、
マーケティングに関しても一個人レベルにまで浸透している。
そうなるとユーザーの方も目が肥えてくる。
キャッチの部分でそそられなければ中身まで見ようとは思わない。
ブログを書いていても感じるけれども、
読んでもらうために大事な部分は「中身」よりも「タイトル」だったりする。
そのせいか「タイトル詐欺」のような記事はどんどん増えている。
タイトルで大言壮語をぶち上げて中身はその結論に至らない。
そうならないように気をつけてはいるけれども、
私の記事の中にもそういうものはあるだろう。
ハードルが上がりすぎているのかな。
訴えたい内容に芸術的な価値を付加して作品へと昇華する。
これまでの作品作りはそういうもので良かった。
だけれどもマーケティングも意識しないといけないし、
バズったらバズったで作品が独り歩きしないようにケアする必要がある。
ひたすらサントリーの商品が作中に登場する『天気の子』
私は正直、萎えた部分はあるけれど「ステマ」としての効果はあるのかもしれない。
切り口は違うが、これもスポンサーを獲得するためのマーケティングの一例だろうか。
「『天気の子』を見て泣いた」と言っていたアプリで知り合った10個年下の女性、
もしかしたら「YouTube世代」は作品の合間に広告を見せられることに抵抗はないのかもしれない。
話を戻そう。
今や大作であっても「つまらない」と評されてしまったら、一瞬にしてSNSに拡散されていく。
そうすると、余程でなければ「見たい」と思っていても、「つまらないならやめるか」とこうなる。
「わかる人にだけ伝わればいい」
今はそういう玄人志向の作品作りが通用しにくい時代なのかな。
フェリーニの『道』やタルコフスキーの『ストーカー』なんかは傑作だと思うけれど、
おそらくどれだけマーケティングを頑張ったところで今の時代に受け入れられる気はしない。
解釈を受け手に委ねられた、ものすごく不親切な作品だからだ。
だけれども、ある意味でさ。
「芸術」ってものは「作品」が語り掛けるものと自らの「価値観」を調和させたときに、
どのような化学反応が起こるかが肝なんじゃないのかな。
そこにカタルシスを感じて、結果として「価値観」はアップデートされていく。
別の表現をすれば作者との「価値観のぶつけ合い」
「作品と向き合う」ってことはそういうことなのだろう。
そういう機会は恐ろしいほど減ったように感じる。
かく言う私もAmazonプライムを周回してコンテンツを消費する側だ。
別の作業をしながらアニメを流してロクに見てもいない。
ふと意識を向けて話が分からなくなると少し巻き戻す。
全くと言っていいほど作品と向き合ってなどいないのだ。
私は作品に何を求めているのだろう。
ただの時間つぶしだろうか。
それとも人生の答えのようなものが隠されていないか期待しているのだろうか。
どこか「先に進んでいるような感覚」を得たいだけなのだろうか。
すごい時代になったものだ。
「見せる技術」のコモディティ化は進んでいき、
それに対応できないと淘汰されていく。
アダルトビデオにしたってそう。
映像を加工しているのか整形しているのかは知らないけれど、
「マジか」って思うくらいにきれいでスタイルの良い女優さんばかりだ。
そうやってデジタルの国の住人たちはどんどんハードルを上げていくのだろう。
そしてリアルでは爆上げした期待値を叶えられる見込みが立たず、行動を起こさなくなる。
こうして何かを評価することでしか自分に価値を見出せない、そんな「批評家」の誕生だ。
朝井リョウさんの『何者』はそれを実によく描いている。
どれだけ作品の方から「私を見てください」ってアピールされたところでさ。
勘違いしてはいけないのだ。
主体者はあくまでも自分自身、
それに自分だって、誰かから見れば「評価される側」なのだ。
神様気取りで評価ばかりするのは勝手だけれども、
そのことだけは忘れてはならないんじゃないのかな。