「3週連続 夏はジブリ」という企画、
毎年恒例の行事だ。
私とジブリ作品、
前にそういう記事を書いた。
もちろんリアルタイムではないけれど、
劇場で公開された作品は全て見ている。
私の人生はジブリの世界観に少なからず影響を受けていることは間違いない。
さて『風立ちぬ』
宮崎駿監督は自身の手がける最後の作品として、
この作品を世に出した。
ところが一転、今も新作を作っているらしい。
もはやこちらも恒例だけれども、
宮崎駿監督は作品を作らずには生きていけない人なのだろう。
私がこの作品を見るのは今回で3度目だろうか。
監督の最新作ということもあり、
これまでの集大成とも言える仕上がりになっている。
とにかく無生物の描写が素晴らしい。
風や雲、小石にパラソル、
それをここまで生き生きと描けるのは宮崎駿監督しかいないのではないか。
それほどにずば抜けている。
それでいてシックな大人の物語、
これまでの作品とは一線を画すような味わい深さ、
生き生きとしていながらも、
深く「人生の本質」を鋭く描き出す。
先日エヴァンゲリオンの記事を書いて、
庵野秀明監督について触れた。
だから余計に意識してしまったのだけれども、
主人公の朴訥とした真っ直ぐで不器用な生き様は庵野さんそのものなのかもしれない。
かえって浮き彫りにされる平坦な声色がなんともいい味を出していた。
何度か過去の記事でも触れているが、
私がこの作品で最も印象に残る場面は、
「創造的人生の待ち時間は10年」という言葉を交わすシーン、
人の「創造性」には限界があって、
それを発揮する期間その間に生み出したものが、
おそらくこの世での役割や使命といったものになる。
そこから先の作品は、過去の遺産を元手にしてセルフオマージュを繰り返すことになる。
これは宮崎駿監督の実感なのかもしれない。
『ジブリの哲学』だったか『虫眼とアニ眼』だったか記憶が曖昧だけれども、どこかで同じような発言をしていたと記憶している。
だから、その創造的な10年をどう使うのか。
それが人生にとって大きな意味を持つ、
それを終えた後の主人公、
彼に対して妻は「生きて」と力強く語る。
人はこの世で果たすべきことを果たした後にも、
生きることを続けていかなければならないのだ。
「もはや世界に対して言いたいことなどない」
人生に折り合いをつけてしまって、
確立されたエコシステムを回しているだけで、
生活に必要なものは自然と手に入る。
ある程度歳をとると、
多くの人はそういう境地に至るのだろう。
新しいことをする必要がない。
悠々自適に時を重ねていけばいい。
若い頃から老後のことばかりを考えて、
「理想的な人生」という空想に投資し続ける。
「FIRE」という早期リタイアが持て囃されて、
早くに自由を謳歌したいと考える。
今の若者は特にそういう傾向にあるらしい。
だけれども、
早いうちにエコシステムを確立して、
人生に折り合いをつけて、
創造的人生の待ち時間を放棄して、
あとの人生は「おまけ」
それでは虚しさを感じはしないのだろうか。
少なくとも私はその停滞感を感じたところから、
転職という新たな一歩を踏み出した。
戦前戦後、
先の見通しなど立つはずもなく、
誰もが暗中模索しながら1日1日を生きていた。
それが当たり前だから、
人と人とが自然と支え合うことができていた時代、
人の心は豊かだったように感じる。
今はそうではなくなってしまった。
どこかシステマティックで、セーフティネットすらも無機質な社会、
人と人との心の距離は、果たして均衡を取れているのだろうか。
「命の使い方」
何かに情熱を燃やして、
あるいは情熱を燃やしている人を支えると決めて生きる。
この作品はそういう「人生の本質」を描いているのだ。
キャッチコピーの「生きねば」という言葉、
そこには現代人に対する揶揄を感じる。
「自由」を持て余して、
「パーソナリティ」を肥大化させて、
何か一つのことに人生を捧げることの難しい時代、
だから何事も中途半端で、
いろんなものを少しずつ齧って、
経験を積み重ねたつもりになって生きている。
「自分は人生でこれを残した」
胸を張ってそう言えるもの、
最後の時を迎えた時に、
そういうものが思いつかない人生は虚しいと、
私はそう感じる。
『風立ちぬ』
とても力強いメッセージを秘めた作品だ。