私は割と行動に「意図」を求める方だ。
「なぜこれをする必要があるのか」
「この作業は無駄ではないのか」
そういうことを考えながら生きている。
慣習をそのまま無条件で受け入れることが苦手、
そういう性質なのだ。
昔の話、
学生時代のサークル活動の中で、
「リーダー」に当たる人と話していての、
「腑に落ちなかった経験」を思い出した。
活動をする上での「利己的な動機」と「利他的な動機」
金銭的なことは一切絡まないけれども、
「成長したい」だとか「人脈を作りたい」だとかは「利己的な動機」
「困っている人を助けたい」だとか「自分にできることをしたい」というのが「利他的な動機」
もちろん「利己」も「利他」も両面あって然るべきだけれども、
個人の意識として「利他的な動機」が前に出ていないと、
活動自体が「偽善」になるのではないかという意見を私は述べた。
それに対して言われたこと、
「利己」だろうが「利他」だろうが、
この活動をしていること自体が素晴らしいので「どっちでもいい」のではないか。
うーん。なるほど、
それはそれで一理ある。
だけれども「この活動自体が素晴らしい」って、
そこを無条件に肯定してしまうのは危ういんじゃないかと思った。
だから私はそれを聞いて「モヤっと」したのだろう。
「行動」には「気持ち」がこもる。
どこかで聞いた「家を建てる目的」の話、
3人の人がいて、同じように家を建てる作業をしている。
一人目は「何をしているのか?」と問われて「資材を運んでいる」という。
二人目は同じように問われて「家を建てているのだ」という。
三人目は同じように問われて「夢を叶えているのだ」という。
その三人目がサグラダファミリア教会を建築したアントニオ・ガウディだとかなんとか、
確かそんな話だった気がする。
要は、同じ作業をしていても本人の意識は全く違う。
単に「仕事としてそれをしている人」もいれば、理想に燃えて「夢を叶えるためにそれをしている人」もいる。
そんな例だ。
話を戻すけれど、
もちろんその「リーダー」は「社会貢献」を目的として活動しているのだろう。
私から見たら素晴らしい人格者だと思っていた。
そして「動機は人それぞれ」というところもその通りだ。
だけれども、家を建てる例に当てはめると、
単に「仕事で家を建てている人」だらけになってしまったら、
始めにあったはずの「理想」や「目的」はどこに行ってしまうのだろう。
そんな疑問が頭に残る。
これは本質的に「働く」ということにも通じる。
私は持論を振りかざして悦に浸っているだけなのだろうか。
どうにも最近、その辺りの線引きが難しいと感じる。
私の主張は「私の自意識」によるものなのか。
それとも純粋に「全体最適化」への寄与を目的とするものなのか。
その出所は当の私にもわからない。
動機が「利己」なのか「利他」なのか。
おそらく二者択一ではないのだろう。
それに当人にとってもそれを言語化することは困難だ。
それならば「リーダー」の言った通り、
「動機はどっちでもいい」というのが正解なのかもしれない。
だけれども、
どこか「モヤっとする」のはなぜだろうか。
それは私が「理想」に対して希望を抱き過ぎているからなのだろうか。
期待値が高ければ高いほど、その落差に人は絶望を感じる。
私はまだ、世界に対して、自分に対して、大きな期待を抱いているのかもしれない。
だから「モヤっとする」ことが多いのだ。
昔のことを思い出して、
ふと、そんなことを思った。