「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「私の文章」が変わった気がする

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以前の私の文章は、どちらかと言えば抽象的なものだった。

自分にだけ理解できればいい。

そんなスタンスで日記のようなブログを書いていたものだから、ディテールは敢えてぼかすくらいがちょうど良いと考えていた。

 

経験を抽象化して、自らの血肉とするために必要なもののみを文章に起こすことで、私は自ら望む方向への成長を目的として、文章を書き続けている。

敢えてブログを続ける動機を挙げるとしたら、間違いなくそれは一つの大きな動機になり得る。

 

しかし、そういう文章の書き方はビジネスと相性が悪い。

前の職場とは比べ物にならないほどの報告を求められる今の職場で働くことになり、私の文章は少しずつ変化をしているのだ。

 

「私の文章は私だけのもの」

そんな厨二病のようなこだわりはない。

 

だけれども、どちらかといえば思索向きで自由気ままに思うことを書き連ねてきた私の文章に生じた変化は、少なからずブログのモチベーション低下に繋がっている。

 

私は対価を得るために、元あった私の文章を差し出しているのかもしれない。

今の職場では、ガチガチのルールに従って働くことが多い。

だから、私は少なからず心を殺しながら対価を得るために求められるロールモデルを演じながら過ごしている。

 

社会で働くということは、そういうことだということは理解できる。

組織に利益をもたらす対価として賃金を受け取っているわけだから、それは仕方のないことだ。

 

あるいは、転職をしなかったとしても、私の立場が変わることで、私の文章は変わったのかもしれない。

ライフステージと共に、人の考え方は変わるもの。

それに伴い、文章が変わっても不思議ではない。

 

「抑圧されている」

今の私に色濃く佇む、そうした意識が、私に及ぼす変化を好意的に捉えさせてはくれないのかもしれない。

 

今は我慢の時だ。

自分にそう言い聞かせながら耐え続けている。

そういう時期なのだ。

 

私は私の選択によって今の立ち位置にいる。

だけれども、その私の選択によって、ひどく選択を再現された環境で働いている。

そこに皮肉を感じる。

 

そういう時期が必要なことは理解できる。

しかし、終わりが見えないことはあまりにもきつい。

 

私は、自分に生じた文章の変化を、好意的に捉えることすらできないのだ。

例え、私に客観的に見れば「成長した」と思われるような変化が生じたとしても、おそらく私はそれを好意的に捉えることはできないだろう。

 

なぜなら、私が今の私のことを肯定できないからだ。

主体性を失っている。

ルールに縛られるたびに、何かを諦めているような気持ちになる。

 

私の心から躍動感は失われていく。

私が誰よりもそれを実感しているのだ。