何度か記事にも書いているけれども、
人は「居場所」がないことには耐えられない。
だから「負の存在」だとしても、
誰からも相手にされないよりはマシだから、
イタズラをすることで「居場所」を見出そうとするのだ。
里を襲った「九尾の狐」を封印する器として、
生まれてすぐに体内に化け物を飼うことになった。
その力に対する「恐れ」や、
「九尾」に対する憎しみを向けられて、
里のみんなに阻害されながら幼少期を過ごす。
「誰からも存在を認められない」
その寂しさから「イタズラ」を繰り返し、
「里の長」として「全員に自分の存在を認めさせる」と息巻く。
そうして始まる物語だ。
左側通行を無視してぶつかってくる「体当たりおじさん」
彼らは特に女性に対しては強気のようだ。
もしかしたらその本質はナルトと同じなんじゃないのかな。
される側からしたら「いい迷惑」だけどさ。
「自分の存在を認めて欲しい」って必死なんだよ。
「家庭」にも「社会」にも居場所がない。
そもそも何にも所属していないのかもしれない。
どんどん「居場所」を奪われていって、
誰からも相手にされない。
誰からも認めてもらえない。
自分の存在価値ってどこにあるんだろう。
そうやって悶々としながら生きている。
だから自分の存在を「世に示すため」に、
「自分はここにいるんだよ」って、
そんなアピールをするために「体当たり」を繰り返す。
「よけろよ」って態度をしながらも、
「おねがいだからよけてくれよ」ってビクビクしながら自分の存在を示すことに必死、
相手を「傷つけるつもり」なんて全然ないけれど、
「自分がいなかったことにされたくない」から、
「体当たり」に勤しんでいる。
そういうことなんじゃないかな。
なんとも哀れな存在だ。
「ナルト」は諦めずに自分の「居場所」を掴み取ったけれど、
「体当たりおじさん」たちはどうするつもりなのだろう。
どこかで変わらなければならない。
人生の責任を代わりに取ってくれる人はいない。
全ては自己責任なのだ。
自尊心がボロボロなんだよね。
誰からも受け入れてもらえないから、
だけれども、それは「するべき努力」を怠っているからなんじゃないかな。
人から認めてもらいたかったら、
まずは自分が人を認めること、
周りに対して敵意剥き出しで、自分の要求ばかりを倒そうとしたって周りは嫌がるだけ、
そこに自分の居場所を見出した先に何があるのか。
自分を傷つけ続けて、自分で自分を追い込んで、
どうしようも無くなったところで自暴自棄になって、
世の中が悪いだとか、恵まれている奴が憎いだとか、
敵意を向けることでしか自分の存在を肯定できない。
匿名の掲示板で憂さを晴らして、テレビに向かって罵倒して、
犯罪者の報道を見ては「自分よりも下がいる」と胸を撫で下ろす。
誰かと比べて優れていなければならないのかな。
あなたがしている努力は、自分のことを傷つけるための努力になってしまっていないかな。
変わりたいと思っているだけでは何も変わらない。
行動を変えなければ人生は変わらない。
「居場所がない」
それに耐えてジッと余生を送るならばそれでいい。
それも人生だ。
だけれども「嫌われる努力」をするくらいならば、
他に居場所を作り出す努力をすればいい。
どんどん追い詰められていくよ。
どんどん自暴自棄になっていくよ。
どんどん生きることが嫌になっていくよ。
体当たりはしなくても、
やたらと揚げ足をとったり、噛み付いてくる人も本質は同じ、
結局、人は人とのつながりの中でしか「生きがい」を感じることは難しいのだ。
だから人は、例えそれが間違っているものだとわかっていても、その「居場所」にしがみつく。
「居場所」に支配されながら生きている。
それでもつながりが欲しい。
「よけろよ」って態度をしながらも、
「おねがいだからよけてくれよ」って内心ビクビクして、
「体当たりおじさん」たちは、今日も体当たりを繰り返すのだ。