私の思う「人として恥ずかしい人」
それがタイトルの通り「頑張っている人のことをバカにする人」だ。
誰かを乏すことで、相対的に自分の価値を挙げようとすること、
「下の下」の自尊心の満たし方、
「あんなことをしても無駄」
そう思うならば、手を貸してやればいいのに、
それを「自分には関係ない」と無視を決め込むばかりか、
心の中ではバカにする。
なんとも浅ましく哀れだ。
おそらく「バカにする」ということは、
そこにコンプレックスが隠されているのだろう。
生きることを頑張っていない人間なんていないだろうけれども、
「自発的に頑張る対象がない」
おそらくそういう人は無数にいる。
頑張っていても、それはただやらされているだけ、
やらざるを得ないからやっている。
そうやってどんどん人生を質にいれていくのだ。
そのうちに誰の人生を生きているのかわからなくなる。
薄々気が付いているけれどもそこから抜け出せない。
そうやってコンプレックスが生み出されるのだ。
だから頑張っている人を見ると、自分のコンプレックスを刺激されたような気持ちになる。
自分のイマを否定されたようになる。
自分を守るために、自分の価値を下げないために、その対象の価値を下げることに躍起になる。
イジメのロジックも似たようなものだろう。
「自分に価値がないこと」
それを認めてしまうと、生きている理由を見失ってしまうから、
だから人は「自分の価値」を求めて彷徨うのだ。
自分を認めてくれる誰か。
自分を好きでいてくれる誰か。
そういう存在がいないと人は健全には生きられない。
生物的には生きていたとしても、
人として生きてはいないのかもしれない。
だから、自分の価値観にそぐわない人を否定する。
それが最も簡単な方法だからだ。
だけれども、それを続けていたってさ。
一時的には自己肯定感が高まるのかもしれないけれど、どこかで気がつくことになる。
「何も変わっていない」
誰かを否定したってさ。
あなたは何も変わらないんだよ。
誰かの価値を下げたところでさ。
あなたの価値は上がらないんだよ。
そのことに気がつかないまま生きていたら、
いつのまにか「人として終わってしまう」
人って生き物はさ。
単純にはできていないから、
気がついてしまうんだよ。
気がつかないふりをしていたってさ。
気がついているんだよ。
だから、結局は「自分を嫌いにならない選択」をし続けるしかないのだ。
それは大変なことだけど、それでもそうし続けるしかないのだ。
そうやって生きていれば、自然と「頑張っている人」を応援したくなる。
「頑張っている人をバカにする人」
誰かをバカにするたびに、自分で自分のことをバカにしているのだ。
「自分は誰かの価値を下げることで、自分の価値を上げようとしている愚か者ですよ」って、
そう言いふらしていることと同じ、
だから私は、一生懸命に生きている人を応援し続けたい。
自分で自分のことを嫌いにならないように、