「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「過剰な人権」主張について思うこと

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今の世の中は、ある意味では自らの選択により、人生を選べる世の中だ。

敷かれたレールは撤廃されて、正解・不正解の判断は個人の価値観に委ねられる。

 

一方で、周りの目を気にしながら、無くなったレールを求めて彷徨う若者たちの姿も目立つ。

今の若者たちの多くは、人とは違う形で注目されることに対する抵抗が強いらしい。

反面、新たな職業として生まれたYouTuberなどのクリエイティブな仕事に挑戦する若者たちもいる。

 

「正解など無い」のだ。

選択肢の幅は、これから先も広がる一方だろう。

 

封建的な社会に対して自由を求めて革命が起こる。

自らの持つ権利を勝ち取るために立ち上がる民衆。

そんな構図は古今東西、枚挙に暇がない。

 

今の日本の若者たちの関心事は、マイノリティが人権を獲得するための活動に連なることなのだろうか。

 

私は、恋愛に関してはマイノリティだが、多くの場合、マジョリティに属する。

だから、LGBTQなどと言われたところで、あまり実感は湧かないし、フェミニスト界隈の人たちの主張に共感することも少ない。

 

それでも、最も大きなコンプレックスであった「童貞」というラベルに対するこだわりは強く、弱者男性の立場で長年ブログを続けてきたわけだから、人は弱点を克服しようと躍起になる生き物なのかもしれない。

 

「人間なんてものは、みんなどこか少しずつおかしい」

新海誠監督の『言の葉の庭』の中で語られたセリフだ。

このセリフは、私にとって妙に頭に残る。

 

人は、自らの経験を礎に生きているから、多くの面で恵まれていても、ある一点を馬鹿にされたり、貶されたりして、そこにコンプレックスを感じていたら、そのことばかりを気にしてしまう。

 

そして、それを克服することが生き甲斐となり、それを否定する相手を「敵」と見なすことで、自らの存在価値を維持しようとする。

 

そうなってしまったら、もしかしたら手遅れなのかもしれない。

自分がマイノリティであることを生き甲斐にして、その他大勢を敵に回すことで、生きるためのエネルギーを生み出す人生。

どう考えても、あまり幸せな方向に進むとは思えない。

 

私にとっての「童貞」も、そうだったのかもしれない。

私は、不誠実な女性を敵対視することで、自らの存在価値をなんとか維持してきた。

 

記事がバズった時は、フェミニスト界隈の人たちから、心無い言葉を投稿されたこともあった。

しかし、それが逆に反骨心を煽る。

そして、「敵」と見なす幅は広がり続け、全体的に女性に対する不信感を強めていった。

 

もしも、私が妻と出会うことがなかったならば、いまだに弱者男性の立場を盾にして、「報われない」というクリスマス記事を書いていたのだろう。

 

何が書きたかったのかというと、「人権」にこだわるあまり、幸せを見逃している人が多いのではないか、ということ。

 

「自らの生き方」を自分で決めることは素晴らしい。

だけれども、それに囚われるばかり、自由を求めているにも関わらず、自らに足枷をしているケースが少なくないのではないだろうか。

 

それでは本末転倒である。

もっと自身を解放して、自分らしさとは何かを考察した上で、それを腹落ちさせることが大事。

中途半端にアイデンティティを築いたつもりになるから、少し批判を受けただけで攻撃的になる。

 

「何者か」になる必要なんてない。

自分は自分でしかないのだ。

「自分らしさ」を追求する人は、それだけで言葉に力がある。

 

薄っぺらい主張をいくらしたところで、それが肯定的に誰かに届くことはないのだ。

「主張をすること」が目的であればいい。

自分の声を自分で聞いて、悦に浸ることが目的であればそれでいい。

 

しかし、誰かにわかってもらいたいのであれば、その主張に対する自分の考えを、より深いものに変えていかなければならない。

 

簡単に言葉を発信できる時代になって、言葉の持つ重みが減ってしまったんじゃないのかな。

私は、どんな時代になったとしても、言葉の持つ力を信じたい。