いつからだろうか。
「女性の手」に注目するようになったのは、
しっとりと綺麗な手、
水荒れをしている手、
そして左手の薬指、
「手」というものは、
実に多くのことを無言で語っている。
顔はしっかりとお化粧をしていても、
その手に刻まれた皺まで隠すことはしない。
女性はよく男の「手」を見ていると聞くけれど、なんとなくその理由がわかる気がする。
その人の生きてきた歴史が、ありのままの姿でそこに佇んでいるのだ。
どこかその人の真実の姿がそこにある気がするのは気のせいだろうか。
手と手、
人が物理的に繋がる上で最もハードルの低い部位、
親愛の証であるシェイクハンド、
しかし、時と場所さえ変われば、それは性愛の証にも変わる。
手の繋ぎ方でわかる二人の関係性、
なんとも奥の深いものだ。
私は女性の手を見て、
どのような感情を沸き立たせているのだろうか。
それは自分でもわからない。
だけれども、不思議と気になる女性の手、
本当は顔を見たいけれども、視線をやりやすい「手」という部位に着目しているだけなのだろうか。
はたまた「信じられない」という思いから、
目の前の女性の真実を探ろうとしているのだろうか。
環境は変わっても拭えぬ不信感、
私はいつまでこうして立ち止まっているのだろう。
何を変えたところで、根本的なところが変わらないのだ。
カラカラに干からびて、水を与えても元には戻らないところまで来ているのだろうか。
そうだとしたらもはや手遅れ、
干物が刺身に戻ることはないし、干し柿がみずみずしさを取り戻すこともない。
今の私はどのような状態で干からびているのだろう。
自分でもそれがわからない。
いまは何か行動を起こす気にはなれないな。
結婚の遠のく選択ばかりをし続ける私、
無意識では結婚することを望んでいないのかもしれない。
失ったものばかりに想いを馳せているうちは、
おそらく先には進めないのだろう。
別のもので埋め合わせようとしたところで、
それで埋まることはないのだ。
今回の私の転職は、私が思った以上に色々な人に影響を与えているようだ。
前の同僚たち、周りの友人たち、
今の同僚たちにとってもそうなのだろう。
良くも悪くも私は動いたのだ。
もはやそれを変えることはできない。
私が「女性の手」を気にしているのは、
どこかそこに安らぎを求めているのだろうか。
「吉良吉影」みたいにならないように気をつけないといけない。