「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

ブログを続けるモチベーション

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完全に頭をニュートラルに切り替えた時に、

「今書きたいこと」として思い浮かんだテーマ、

 

ここ最近は「ブロ調(ブログの調子)」がかつてないほどよろしくない。

 

私は「毎ガー(毎日ブロガー)」として、

記事のクオリティにあまりこだわりが無く、書きたいと思うことを書きたいままに綴る自己満足ブログを続けている。

収益化をするつもりはない。

 

だから自然と更新は続き、先月には1200日連続での更新を達成し、このペースで続ければ年内に総数1300の記事を書くことになる。

 

ブログを書くことが生活に染み付いている。

日常の中で脳裏にふと浮かび上がる言葉を掬い上げて文章にする。

そういう癖がついた。

 

その作業自体は変わらず続けているのだけれども、どうもモチベーションが上がらない。

いや、私にとってブログを書き続けることは、もはやモチベーションすら必要としないのかもしれない。

 

転職という大きな転機を迎えても、更新が止まる気配はなかった。

それどころか「その時に感じていることを文章にしたい」と思い、それなりに新しい記事を生み出し続けていた。

 

膨大にあったストックを食い潰している状況に変わりはないが、今でもそれなりに新たな記事を生み出し続けている。

このペースならば、まだしばらくは大丈夫そうだ。

 

ただ、そこにモチベーションはない。

 

「どこかに到達したい」だとか、

「書き続けることでどうなりたい」だとか、

そういう目的がすっぽりと抜け落ちている。

 

前に記事にしたけれど、村上春樹さんは『回転木馬のデッド・ヒート』の中で「書くことによってどこかに到達することはない」と明確に述べている。

 

当時の私は「その言葉を否定したい」との思いを綴っていたけれど、書けば書くほどにその言葉を実感する。

 

「書かずにはいられないから書く。ただそれだけ」

村上春樹さんはこうも綴っていた。

 

彼にとって「生きることは書くこと」

僭越ながら少しは私もその領域に踏み込んだのかもしれない。

 

『呪術廻戦』で言うところの領域展開、

ある種、自分だけでなく「環境」を自分の支配下に置く。

突き詰めると人は、何かをライフワークとすることで、他人の評価を気にすることなく、それに打ち込めるようになるのかもしれない。

 

それは「到達する」というよりは「解放」に近い。

己の内面を曝け出しても問題ないと考え、ありのままの姿で生きる。

周りもその人の個性を個性として受け入れる。

 

どんな環境に身を置いても、その人らしく「居場所」を見出すことができる。

 

「到達」であり「解放」

書くことに限らず、何か一つのものに打ち込むことで、人は「人生から救われる」のかもしれない。

 

「生きがい」一つで人生は大きく開けるのだ。

 

過度に依存せず、無理のないライフワークとしてのブログ、

私とブログとの付き合い方はそれで良いのだろう。

 

かつてはブログとバチバチやり合っていた気もするけれど、今の私はブログに対して過度な期待をしていないし、ブログの方も多くを語りかけてはこない。

 

お互いが空気のように存在し続ける。

古い戦友のようなものだ。

 

それが私のブログスタイル、

 

全盛期と比べると、交流するブロガーさんの数は大きく減った。

 

それは私にとって寂しいことだけれども、ブログとの付き合い方を変えると言うことは、その人の人生に変化があった証拠でもある。

 

「先に進んでいった」

そう思うことにしている。

 

ブログを契機として想いや日常、

書きたいことを書き続ける中で、その人は心を解放して、人生を先に進めていったのだ。

 

私にはまだ解放できない部分があるのだろう。

フライパンの焦げ目のようにこびりついて取れない。

そんな頑固な汚れの発する叫び、

 

それがある限りは書き続ける。

そういうことなのだろう。

 

人生を先に推し進めるためのブログ、

書き続けたことがその人にとって、人生の糧になれば幸いだ。

 

そして、私がそれを信じたいという想い。

そういう利害関係も多分にあるのだろう。

 

輝かしい未来に向けて、

新たな世界への一歩を踏み出す人たちに幸あれ、

 

心からそう願いたい。