「認知的不協和」
「自己矛盾」と言い換えて差し支えないだろうか。
人は「自己矛盾」を抱えた生き物だ。
私は「それで良い」と思う。
だけれども、
その「自己矛盾」に苛まれて、
「こんなはずじゃなかった」って、
それで生きる気力を失う人が多いように思う。
そうなってしまったら「良い」とは言えなくなる。
「思い通りにならないことが当たり前」
人生がそういうものだということはわかっているはずなのに、
人はまた「自分の人生に期待をする」のだ。
そうやって擦り減っていく。
徐々に「希望」を「絶望」に置き換えて、
そうやって擦り切れていく。
大事なことはさ。
自分を気持ちよくさせてあげること、
それでいて、周りに度し難い迷惑をかけないこと、
人生というものは、
そのバランスの上に成り立っているのだ。
いくら擦り減ってみたところで、
縮んだ背丈に気が付いてくれる人などほとんどいない。
気が付いてくれたところで、
「慰め」程度に言葉をかけてくれるだけ、
結局は自己責任なのだ。
あまりにもコスパが悪い。
「擦り減っている」と感じたら、
「擦り切れる」前に対策が必要、
安易に流されて、自分の価値を誰かに委ねるからそういうことになる。
自分の「ものさし」を作り出すところから始めなければならない。
それだけは何かに委託してはならないのだ。
人の心なんて不確かなもの、
嫌なことがあれば落ち込むし、
嬉しいことがあれば弾む。
だから「心」にだって、
安易に自分の価値を委ねてはならない。
揺るがない「ものさし」が必要なのだ。
そして、その「ものさし」は、
事あるごとに形を変えていかなければならない。
全くの別物に変える必要はないけれど、
少しずつ、
今いる場所に合わせた形に変えていかなければならない。
「ものさし」の更新をやめてしまったら、
その時点で成長は止まってしまう。
年齢は関係ないのだ。
自分の価値観を変え続けていけるかどうか。
自分の中の矛盾に気が付いたならば、
何かしらのギャップが生まれているということ、
それをそのまま放置していたら、
ギャップはどんどん広がっていく。
だから、注意深く自分のことを探らなければならない。
今どこにいて、何を目指していて、何に喜びを感じるのか。
軌道修正した先には公開があるかもしれないし、
軌道修正を繰り返すこと自体に喜びがあるのかもしれない。
それでも、自分で自分の人生を掴み取っているという感覚、
それが何よりも大事なのだ。
私は私の人生を生きている実感が欲しい。
それを感じ続けながらいきたい。
それでいて柔軟でありたい。
自分らしさという基準を模索しながらのチューニング作業、
最後まで納得のいくところには辿りつかないかもしれない。
それでも折り合いをつけて生きていく。
答えのない人生、
「生きる」とは、なんと曖昧なものなのだろう。