何か失敗した時に、
自己防衛本能からか、自分が悪くない理由を探し出して「自己正当化」しようとする。
その後は、その理論にしがみついて、心を落ち着けるのだ。
そういう瞬間は必要かもしれない。
しかし、それで終えてしまうと成長はない。
一旦心を落ち着けたらならば、その次は未来につながるような行動を起こさなければならないのだ。
「自己正当化」に逃げる。
私はこれまで、そうやって成長の機会を逃していたのかもしれない。
厳しい環境に身を置いて、自分で責任を取らなければならなくなると、これまでの自分の甘さが浮き彫りになる。
「自分は悪くない」
「詳しい説明もなしに、全てを丸投げした方が悪い」などと、尤もな理由をひとしきり並べた後に、自分の悪かったところを省みる。
後者を疎かにしてしまうと、負の感情はどこにも辿り着かない。
生じてしまった「負の感情」を、どこかにたどり着かせるために必要な行為が「反省」なのだ。
反省をしながらも「自己肯定感」を高く保つ。
それはなかなか難しいことだけれども、意識してそれを行い続けないと、今度は根無草の言いなりイエスマンと化してしまう。
自らの意思で、負の感情を飼い慣らしながら、自己肯定感を高めていく。
その作業を愚直に繰り返すほか、人としての成長は無いのかもしれない。
感情を動かさなければ、何も変わらない。
だけれども、感情に振り回されてしまうと、本質を見失ってしまう。
ちょうど釣り合いの取れたところで、左右に振られながらもバランスを保つスキル。
長く生きれば生きるほど、そういった「調整力」を求められるのかもしれない。
だから、人は歳をとると丸くなる。
自分の力の限界を知って、結局は周りと調和することで、より一層、人生を豊かにすることができると気がつくからだ。
毎日が積み重ね。
失敗も成功も、結局はそれを受け止める側次第。
だから、自分が悪かった場合でも、
あるいは、悪くなかったとしても、
「自己正当化」を終着点としないことは大事。
そこで終わってしまったら、
そこから先につながるものはない。
ただ、ただ、歪んだ自己愛が育まれるだけだ。
そういう人間で終わりたくはない。
そういう人間は、惨めだ。