「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

1300の記事を書いて

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昨日の記事は1300回目の投稿だった。

 

私は記事数と連続更新日数を区切りにして、

100ごとにそれまでの100日を振り返る記事を書いている。

だけれども、今回は過去最低レベルに書くことがないのだ。

 

100日前は9月の中旬、

転職を経て程なくだから変化の大きな日常を過ごしてきたはずなのに、

 

もはや、私にとってブログを書くことが当たり前になりすぎて、100日が区切りにはならないのかもしれない。

 

1000まではなんだかんだでモチベーションを保つことができるけれども、それ以降はオマケのようなものだ。

 

いったい私はいつまでこうしてブログを書き続けるのだろうか。

最近はそんなことを考えるようになった。

 

昔のように、色々なブログに飛び込んではコメントを残したりはしなくなったものだから、ブログ内の交流はどんどん減っている。

 

最盛期には記事数の倍ほどいた読者数も、記事数が読者数に追いつこうとしている。

 

まさに「停滞」

 

コツコツと積み重ねることによる一定の効果はあるのだろうけれど、そろそろ何かしらブログスタイルを変化させていかないと、そこから得るものはあまりないのかもしれない。

 

それでも相変わらず、私は書きたいことを書き続けているし、「義務感が全くない」とは言わないけれど、さほど更新を続けることを「苦」には感じていない。

 

ただただ続けているのだ。

息を吸うように、毎朝投稿を続けている。

 

私は「書くこと」と相性が良いのだろう。

気持ちがモヤモヤした時は、自然と文章にしてそれを発散する癖がついた。

 

自分の書いたものを読み返してみると、「苦しみの代償」として「面白いものが書けたな」だなんて慰めにしていることも少なくない。

 

どこか破滅的な快楽、

太宰治やら芥川龍之介はこのような感覚に惚れ込みすぎて歯止めが効かなくなったのかもしれない。

 

何かを生み出すことには中毒性がある。

それが「生きた証」になりうるからだ。

 

人は意味を求める生き物、

私は同世代と比べてライフステージが進まないものだから、子供を育てる代わりのように文章を書き続けているのかもしれない。

 

だから、私にとって何かを生み出す必要がなくならない限りは、こうして文章を書き続けるのかもしれない。

 

そうこうしているうちに、どんどん浮世離れしていく感覚もある。

どこかメタ認知が癖になり、いつも自分を客観視している気分になる。

 

冷静に自分の行動規範を分析してみると、

私は自分の人生に期待をしていないようで、大いに期待している。

常に漠然とした「良い方向へと進んでいる」という感覚と共に生きているような気がする。

 

もしかしたら、それもブログを書き続けている効果なのかもしれない。

自分の歩みを振り返ることで、「自分はこれだけ努力してきた」と、自己肯定感を高めているのだろう。

 

記録することは大事なこと、

たとえ客観的に望まれるような成果を上げていなかったとしても、人は生きているだけで前に進み続けているのだ。

 

それを実感するために、私はブログを書き続けているのかもしれない。

真偽はわからないけれど、そういうことにしておこう。

 

いつもしがないブログを拝見してくださり、

スターやブックマーク、コメントまでいただきありがとうございます。

 

今のところは辞める気配はないので、気が向いたら引き続きお付き合いください。