小手先ばかりの技術を磨いて、
うまいこと人間関係を回す人。
それが大事な場合があるけれど、
自らの中心に打ち立てた根本となる精神性。
そういう「幹」というべきものを育てていかないと、
最後は惨めな思いをすることが多いように思う。
あちこちにいい顔をしては振り回される。
自分の存在価値を誰かに委ねてしまったら、
誰の人生を生きているのかわからなくなる。
「自らの意思で、自らの行動を決めること」
人生は選択の連続だ。
どのような場面においても、
「人生というものは、自分で選択をして、自分で責任を取らなければならない」
それは揺るがない事実だ。
それに気がつかないままで、
いや、気がつかないふりをして、
ただ言われるがままに行動する。
そっちの方が楽なのだろう。
だから、誰かの決めたレールの上をその通りに走る。
ポイントを切り替えた先に何が待ち受けているのかはわからない。
新たにレールを作るとなれば、より手間はかかる。
そういうリスクや労力を考えてしまうと、人は思考を停止して、目の前の作業をこなすだけになる。
あとはその繰り返し、自ら選んでいるようで、それを選ばされているのかもしれない。
宿命に抗うためには、大きな苦労が伴うもの。
誰しも生まれ持った気質があり、そこから大きく変わることはなく人生を全うすることがほとんどだ。
幸せを実感できる場面もあれば、
不幸で仕方ないと感じることもあるだろう。
だけれども、それはある程度、あらかじめ決められたレールの上を走っているのかもしれない。
そこから自らの意思で逸れることは、並大抵のことではない。
逸れてみたところで、気がついたら同じレールの上に戻っていることもある。
だから、自分はどういう人間で、どういう生き方をしたいのか。
現状とゴールを明確にする必要がある。
そして、それに向けて前進するのだ。
それが「幹を育てる」ということだと思う。
私は私の選択に、責任を持つことができているのだろうか。
ポイントを切り替えなければ、今でも安穏とした中に過ごしていたのかもしれない。
それは想像に難くない。
だけれども、私はそれを捨てて、どうなるかもわからない道を選んだのだ。
毎日が変化の連続で疲れ果てているけれど、
「自分で選んだ道」と言い聞かせながら、歯を食いしばって生きている。
私が責任を放棄しない限りは、
私の真ん中にある「幹」は育っているのかもしれない。
その成長は、あまりにも緩やかだから、
自分でも気が付かない程度のもの。
それでも、5年、10年先には変化のわかるくらいになっているはずだ。
私はそれを信じて、毎日を一生懸命に過ごすしかない。
人は「希望」を糧にして生きている。
人生には「希望」が必要なのだ。
そして、それを誰かが与えてくれることなどほとんどない。
自ら「希望」を打ち立てて、
それを信じて、それに向かって生きる。
そうじゃないと、
ただ生体活動を続けているだけで、
生きているのかどうかもわからなくなる。
どこかで信じている。
「必ず良くなる」ということを。
だから、人は人として生きることができるのだ。