北京オリンピックが開幕した。
東京から間がないせいかオリンピックの特別感はあまりなく、粛々と開催されているイメージだ。
開催前には批判の多かった大会だ。
新疆ウイグル自治区を中心とした人権問題、
そのような問題を抱える中国で、平和の祭典であるオリンピックを行うとはいかがなものか。
そうしてアメリカを始め、大会をボイコットをするという話まで出た。
それを受けての私の立場は下記の通りだ。
確かに人権問題は大問題だ。
そして中国政府からすれば、国威掲揚のためにオリンピックを行いたいという意図は多分にあるのだろう。
さらに見方によれば、IOCと中国がズブズブの関係で、人権問題を無かったことにしようとしている。
そういう事実があるならば非難されて然るべきだろう。
だからといって、スポーツに政治を持ち込むのはご法度ではないだろうか。
コロナ禍は別として、大会開催自体が危ぶまれるような状況を人為的に作ることはおかしな話だ。
中国もアメリカも、あるいは日本も大会を政治利用しようとしているのだ。
それは「人の努力」を食い物にする行為に他ならない。
経済効果を狙ったオリンピック招致は、いい加減にやめたらどうだろうか。
少なくとも、開催に向けて準備をするアスリートやスタッフは「素晴らしい大会にしよう」と努力を重ねている。
利権やら国益やらパワーバランスやら、上がそんなことばかりを考えているから、その人たちの努力まで批判の対象とになる。
「開催する」と決まったならば、
楽しみにしよう。応援しよう。喜びを分かち合おう。
単純にそれで良いのではないか。
主義主張に関係なく、人種や思想を越えて世界が一つになれる。
本来「オリンピック」の目的はそういう機会の創出なのではないか。
みんなが頭の中お花畑になって、大会自体に夢中になれば良いのだ。
それが「オリンピック」というものではないだろうか。
マスコミは変に対立構造を作り出して国民感情を煽る。
はっきり言って害悪でしかない。
政治的批判は大会が終わった後に好きなだけすれば良いのに、それでは数字に結びつかないものだから、大会前に行う。
こういうのって、どうにかならないものだろうか。
人の生き血を吸い、己の糧にするにする吸血鬼、
そのうちに、人を傷つけているという自覚すら無くなっていく。
この日に向けて重ねてきた努力、
それが結果に結びついた時の歓喜、
そして、思うように発揮できなかった時の涙、
民衆が求めているものは感動だ。
その感動に水を差すようなことだけはやめてほしい。
「オリンピック」を開催する理由なんてものは、
もっとシンプルで良いはずだ。