昨今のウクライナ情勢を鑑みて、皆さんも同じだと思うが、思うところは多い。
今回は掲題について考察したいと思う。
「国」と何か?
私の中で、なんとなくでしか「言語化」できていない概念だった。
私の結論を率直に述べるならば、掲題の通り「文化的集合体」という言葉がしっくりくる。
日本人にはあまりなじみがないかもしれないが、
人種で国がわかれているわけでもなければ、扱う言語でわかれているわけでもない。
少し前に、小栗旬さん主演で『日本沈没』というドラマをやっていたけれども、
あれの結論も「文化的集合体」と似たようなものだった。
文化の独自性、それを国と呼ぶのではないだろうか。
だから、統合を拒んでウクライナの人たちは命を懸けて「国」を守ろうとする。
おそらく、そこに「自我」があるのだ。
自らのルーツ、
そこには人生を懸けてでも守るべき理由があるのだろう。
自分が自分であるために、どうしても譲れないもの。
これまで培ってきた「気持ち」や「関係性」
そういうものを蹂躙しようとする相手に対して命をかけて抵抗する。
ある意味では、正しい命の使い方なのだろう。
何度も述べていることだが、今の時代は「命の尊さ」ばかりが先走っていて「命の使い道」に言及することが極端に少ないと感じる。
私の思想が右寄りということではないが、
「命をどのように使うのか?」
生きている限りは、それを自らに問いかけ続けるべきだと思う。
できるだけたくさんのものを手に入れて、最後を迎える時までに、それを十分に愛でて、そして手放していく。
その過程が人生の醍醐味だ。
もちろん戦争がないに越したことはない。
そして、命が大事だということに疑いの余地はない。
それでも、自らの意思で選択した「命の使い道」を、誰に咎めることができるのだろうか。
戦争ってものは本当に嫌だね。
自らの「命を使う過程」で、誰かの命を奪うことになるかもしれない。
自分の生き方を貫くために、誰かの生き方を否定することになるのだ。
「文化的集合体」
その視点が狭いと、争いというものは起こってしまうのかな。
自分個人から、家族、そして友人、
所属する会社やコミュニティ、
最後は「国」で止まってしまっている。
だから「国」同士で争いが起こるのだ。
例えば、宇宙人から侵略を受けることになれば、地球人の団結は深まるのではないだろうか。
なんとも皮肉なこと、
強大な敵を前にすると、昨日の敵が今日の友となる。
『ドラゴンボール』なんかは、わかりやすくこの構図でストーリーを進めてきた。
ワレワレハさ。
チキュウジンなんだからさ。
そこの同族意識を深めることができれば、殺し合うほどの大きな争いなんか起こらなくなるんじゃないかな。
だけれども、人の愚かさか。
より大きな脅威が差し迫らないと、そのことに気がつくことはできないのかな。
もしも明日にでも宇宙人が攻めてきたら、
ウクライナ危機は終わるのだろうか。
そう考えると、今ロシアのやっていることは、なんとも無意味で滑稽に思えてくる。
エゴに目隠しされて視野が狭くなると、
人は馬鹿になるのだ。
化学兵器を持ち出して苦しむ殺し方をしたり、町ごと徹底的に破壊したり、人の資産を強奪したり、子供をレイプしたり、
およそ人間のすることとは思えない。
個人のエゴに起因するものなのか疑うほどだ。
これもまた、ロシアの評判を落として、中からロシアを転覆させるための陰謀ではないかと疑うほどだ。
動機はどうあれ、こういうことをやっている人がいることは事実なのだ。
「欲」ってものは本当に怖いね。