私はブログに「生死のこと」をそれなりに綴ってきた。
だから、ある程度は自分の中に確たる生死観が芽生えているだろうと期待したが、表題の問いを投げかけられた時に、私には対して語れることはないことに気がつく。
「生きていれば良いことがあるさ」
「生きること自体が幸せじゃないか」
果たして、心の底から私はそう思えているのだろうか。
生きていると大変なことばかりだ。
毎日歯を食いしばりながら歩みを進めている。
幸せの欠片は小さくて見えにくいところばかりにある。
だから、少しでも油断をしていると見逃してしまうのだ。
しかし、日常が忙しすぎるものだから、そこに注力するほどの余裕はない。
そうこうしているうちに、随分とたくさんの幸せの欠片を取り逃してきたのかもしれない。
マリオカートで、緑カメの甲羅を避けようとするあまり、アイテムボックスを取り逃がすように、障害から大きく逃げるほどに幸せは遠ざかる。
そういうものなのかもしれない。
逃げて逃げて逃げた先に、どうしようもなくなる。
逆に、努力して、努力して、努力した先に、その努力が報われないこともある。
「死ぬ」という行動に至る人の前には、果てしない絶望が広がっているはずだ。
そこからのリカバリは並大抵のものではない。
「それでも生きた方がいい」
そう軽々しく言えるものなのだろうか。
それは難しいと思う。
自分が生きているからさ。
死んだことがないからさ。
だから、人は生きていることを肯定するしかないのだ。
今自分のいる場所が「素晴らしい」って、そう信じることしかできないのだ。
だから、そこから離脱しようと考える人を目の前にした時に、自らの人生に対する姿勢が浮き彫りになる。
心の底から「生きた方が良い」
そう言える人は幸せな人だ。
私には、そこまでの確信はないのかもしれない。
あいみょん『生きていたんだよな』
生きて、生きて、生きて、生きて、
その上で命を断つ決断をする人に対して、それを否定することなんてできるのだろうか。
「生きる」ではなくて「生かされている」
そう思ってしまった途端に人は、自らの人生から彩りを奪ってしまうのかもしれない。
どこまでも主体性を忘れてはいけない。
誰かのために生きるのではなく、自分のために生きるのだ。
思いを共有できる誰かとともに、自分のために生きるのだ。
自分の心が動いていなければ、もしも目の前に自らの命を経とうとしている人がいたときに、その人の心を動かすような振る舞いをすることはできない。
自分が「生きること」を肯定できていなければ、
他人の心を動かす言葉を語ることなど出来はしないのだ。