転職をしたばかりだからだけれども、
「この人はヤバい」だとか「この人には気を付けたほうがいい」というような話をされる機会が多い。
相手は、私に気を遣って注意してくれているのだろう。
それはそれで、多少の先入観をもってその対象に接するようにはなるけれども、その話を受けた当の私が、それだけで「ヤバい人」というレッテルを貼るのはいかがなものかと思う。
だから私は、自分が痛い目に合うまでは、できるだけニュートラルな目で判断したい。
人には「相性」というものがある。
「育ってきた環境が違うから好き嫌いは否めない」のだ。
「夏がダメだったり、セロリが好きだったりする」のは仕方がないことらしい。
もしかしたら、噂を流す人にとっては「ヤバい人」であっても、私にとってその人は「面白い人」かもしれない。
それに人は「経験」を経て変わるのだ。
その時は世間的に「ヤバい人」であっても、そこから自分を戒めることで「ヤバくない人」に変わっているかもしれない。
私の考えは少数派なのかもしれないけれども、私がこのような考えで生きているのは、「人の可能性を信じたい」という思いが強いからだと思う。
直接、危害を加えられたのであれば、その体験から相手を嫌うことは当然なのだろう。
いくら謝られても受け入れられないこともある。
私にもそういう相手はいるし、それは仕方のないことだ。
だけれども、単に人の意見だけで、よく知らない人を評価するのはいかがなものだろうか。
自分が逆の立場だったら憤慨するはずだ。
一度「ヤバい奴」とのレッテルを貼られると、そこからは同じ環境で巻き返すことができない。
そんな優しくない社会ならば、どんどん才能は淘汰されていく。
芸能人のスキャンダルだってそうだろう。
擁護するわけではないけれど、多目的トイレのあの人だって、直接危害を加えられたわけではないのに、あらゆる日本国民から「ヤバい奴認定」を受けている。
どこまでが真実で、どこまでがデマかもわからないままに、
もちろん、自らの行いに責任を持つ必要はあるけれど、再起不能になるまでコテンパンにする必要はあるのだろうか。
問題は、直接損害を受けた人たちの間で解決すればいい。
私は聖人でも何でもない。
だから、自分が直接危害を受けて「ヤバい奴」だと思った人のことは、「こんな仕打ちを受けた」だなんて言いふらすかもしれない。
だけれども、情報を受け取る時は、できるだけニュートラルな視点でいたい。
なんだか矛盾した言い分かもしれないけれど、自分が経験したこと以上のことを人は理解することはできないのだ。
想像することはできても、理解することはできない。
だから私は、自分の経験を大事にしたいと思う。
そして、その人の可能性を積むような行為はできるだけしたくないと思う。
「何の権利があって、全く関係のない人を面白おかしく笑いものにするのだろうか」
疑問で仕方がない。
人は自分よりも下の人間を作りたいのだ。
それによって相対的に自分の立場を上げようとする。
私に言わせれば、下の下の自尊心の満たし方、
自分の存在価値なんて、自分で決めればいい。
だから私は噂話だけで人を判断したくはないと思う。