「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「障害」の変遷

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少し前に下記投稿がTwitterでバズっていたようだ。

肉体が最高の価値を有していた時代に身体障害という概念が生まれ、知的能力の価値が向上するにつれ知的障害という概念が発生し、コミュニケーション能力の価値が向上してきたことにより発達障害という概念が生まれてきたのだと思っている。障害はその時点における社会で生活に支障があるという意味だし

 

非常に興味深いと感じた。

 

時代に応じて、求められるスキルは変わる。

「回る回るよ。時代は回る」

 

今はコミュニケーションスキルが人より劣っていると、それが「障害」と見做される時代なのかもしれない。

 

かねてより、私は「発達障害」という言葉に懐疑的だと述べてきた。

 

発達障害」は、個性の延長線にあるもの。

旧来からの自閉症と診断のつくものであれば、それは「障害」と見做されて然るべきものなのかもしれないけれど、

ADHDアスペルガーは、時代によっては「少し変わった人」どころか、活発であったり、信念を曲げないという点で、長所と捉えられることもあっただろう。

 

今は「発達障害」の定義がものすごく広がって、個性までもが「障害」の領域に足を踏み入れてはいないだろうかと感じている。

 

診断が付くことで、その子の人生が前に進むのであれば良い。

だけれども、それが足枷となるのであれば、安易な診断をするべきではない。

 

幼少期の感受性はとても敏感だ。

その時に受けた傷や劣等感が、一生を決定させるほどのインパクトを持つことは少なくない。

そこで「権威ある立場」から「発達障害」と「他の子とは違う」と突きつけられたならば、その先の人生は、それを受け止めてからのスタートとなる。

 

「人なんて、みんなどこか少しずつおかしい」

 

新海誠言の葉の庭』の中で述べられるセリフだけれども、これは核心をついていると感じる。

 

その「おかしいところ」が、社会生活を営む上で支障がないか否か。

ただそれだけのことなのだ。

 

たまたま、社会生活に向いている個性を持っていたら「エリート」となり、逆であれば「障害」となる。

 

診断によって、自分が社会的に何者かであるというステータスを獲得することはできる。

だから、診断をつけることが必ずしも悪いとは言わないけれど、それがその子の人生にどのような影響を与えるのか。

それを吟味する必要は大いにある。

 

私は一度「軽度のパニック障害」と診断をつけられたことがあるから、社会的に広義では障害者にあたるのかもしれない。

だけれども、そこから5年くらい後の話だが、診断がついた後にキャリアアップの転職を成功させているし、社会生活をある程度はまともにこなせているつもりだ。

 

結局のところ、本人が自分の特性を認識して、それをどう武器として活かすのか。

それが何よりも大切なのだろう。

 

いまだに神経過敏な時はある。

無理の効かない体になったことを自覚した。

これは、もはや私の特性となったのだろう。

 

だから運動と睡眠には人一倍気を使うようになった。

そして、少しばかり過活動になりがちな神経を手に入れたことで、ここぞで力を発揮しやすくなった実感はある。

 

長所と短所は表裏一体なのだ。

安易な「発達障害」という診断からは、その視点が抜け落ちているのではないだろうか。

 

そもそも「障害者」という言葉の持つ意味。

「ハードルを抱えて生きている人」

 

世の中の全ての人は、ハードルを抱えて生きているのではないだろうか。

中には支援の必要な人もいるだろう。

だけれども、自らの持って生まれた、あるいは後天的に手に入れた課題と向き合いながら生きることが人生だ。

 

全ての人が、誰に遠慮することもなく、支援を求められるような社会になればいい。

そうなれば、おそらく「障害」という言葉を意識することなく、皆が支え合って生きていけるのだろう。

 

「障害者」は特別な存在である。

 

当事者も周りも、その認識を打破するところがスタートではないだろうか。

そう思うから、私は「発達障害」という言葉に懐疑的なのだ。