人には「動くため」の燃料が必要である。
「カロリー」の話ではない。「動機」の話だ。
人は何かをしようとするときに、
その「目的」となる動機がないと多くの場合、
志半ばで力尽きてしまう。
つまり、「動機」を持ち続けないと、
人は長期間にわたり、何かを継続することはできないということになる。
「仕事だから」という割り切り、
その中にも動機は隠されている。
「賃金を得るため」だったとしても、
それを掘り下げると「良い生活がしたい」「家族を養いたい」とつながる。
動機がなくなってしまったら、
わざわざやりたくないと思っている仕事をすることはない。
幸い、日本の社会保障制度はかなり手厚くなっている。
最悪、働かなかったところで死ぬことはない。
それならば、辛い辛いと言いながらもその環境に居続けるということは、
「好きでやっている」ということになる。
少なくとも、何かしらの動機があるからやっていることになる。
それは疑いようのない事実だ。
さらに私の場合は、やりがいを求めて敢えて環境を変えた形だ。
自ら望んで「ぬるま湯」から「厳しい環境」に足を進めたことになる。
おそらく転職しなければ安泰だったのだろう。
前職は、規模はそこまで大きくないが安定した会社だった。
それなりに評価されており、会社の中心に属人業務を持っていた。
年功序列だから出世は早くはなかったけれど、
年とともに、そこそこの地位を獲得して、
のほほんと働きながら職制を全うして老後を迎えたという想像は容易にできる。
しかし、私はそれを選ばなかった。
そして、今は毎週仕事が増え続けるような過酷な環境で働いている。
「このまま仕事が増え続けたら私は一体どうなるのだろうか」
「先のことは、先の自分に任せるしかない」
常々そんな危ういメンタリティで働き続けている。
おまけにプライベートも激動だ。
土日も絶え間なくタスクをこなしている。
これほどまでの変化に私はよく潰れずにいるものだと感心する。
精神的にも肉体的にも1度ずつ死にかけて、
私はある程度人生を割り切りながら生きている。
だから強いのかもしれない。
だけれども、どこかに限界はあり、
力尽きる日が来るのかもしれない。
私の燃料はどこにあるのだろうか。
私の「働く動機」はどこにあるのだろうか。
それは「あらゆる経験を積みたい」
そんなところにあるのかもしれない。
限りある人生だから、主体者としてたくさんの経験を積んで、その時に自分が何を感じて、どのような行動を取るのか。
それを分析して「気付き」に変える。
私は私のことを監視することが趣味になっているのだろうか。
そんな節がある。
人として誠実であり続けたい。
そのためには、多くの苦労を経験する必要がある。
だから私は苦労を求めているのだろうか。
そういう節もある。
いずれにしても、心か体を壊してしまったら、再帰までに時間がかかることになる。
しっかりとケアしながら、うまいこと乗り切るしかない。
もはや、今年度は忙しいことが確定している。
随分と長い道のりだ。
加えて、プライベートではその間に間違いなく大きな変化が訪れるだろう。
非常に忙しく過ごしている。
私の心と体は持つのだろうか。
とても心配だ。