「信念に殉じること」は、ある意味では「狂気に身を委ねること」だ。
しかし、その作業を繰り返す中で、「狂気に身を委ね続けること」で、筋の通った生き方を獲得する。
そういうことは少なくない。
むしろ、一流と呼ばれる人たちは、一流になるまでに、狂気に身を委ね続けることで、その域に達する。
そっちの方がセオリーなのかもしれない。
「人の心」は移ろいやすいもの、
環境や立場に流されて簡単に変わってしまうもの、
それは、ある程度は仕方のないことなのだけれども、
私のような凡人は、どこか自分の中で定めた「一線」をキープして生きている。
その「線引き」をどこでするのか。
もしかしたら、それで人生は決まるのかもしれない。
どうしようもなく追い込まれて、苦しくて仕方がないとき、
それでも自らの欲に打ち勝って、信念を曲げない生き方を貫く。
そうした「狂気」に身を委ねる生き方。
それは美談のように聞こえるけれども、必ずしもそうとは限らないのだ。
その過程で、心と体が悲鳴をあげる。
それでも、その悲鳴に気が付かないふりをして、どんどん先に進み続ける。
すると、体がオーバーヒートして動かなくなる。
そのリカバリには、長い時間を費やすことになる。
そうして、結局は遠回りをすることになるのだ。
だから、自分にかかる負荷を客観的に見続けることは大事。
今の自分には「これくらいしかできない」と、そこでやめておくことが大事なのだ。
その線引きをできないと、「狂気」に支配されることになる。
「こうでなければならない」
「できない自分には努力が足りない」
「自分は価値のないダメな人間だ」
そうやって、「狂気」に殉じることが価値判断の基準となってしまうのだ。
どこかで聞いたある精神科医の話、
「メンタルをやってしまう人というのは、ある意味では才能がある人だ。メンタルをやるくらいまで努力をし続けることのできてしまう人だから」
他にも、確か河合隼雄氏が述べていた。
「精神病が治らない人というのは、才能がある人だ。普通は自分の病気に疲れてしまって、精神病を手放すのだけれども、治らない人は病気にしがみつくことができてしまう。それはある種の才能だ」
「狂気の世界」
私も一度それを体験している。
診断は軽度のパニック障害だった。
症状としては全般性不安障害に近いものだ。
地獄のような日々だったけれど、日常的に躁状態だから、高揚感に包まれていたことを覚えている。
常に覚醒状態で、行動力は湧いてくる。
むしろ、ソワソワして行動せずにはいられないような状態だった。
そして、極限まで動き続け、考え続け、交感神経が優位なものだから、まともになることも叶わず、限界を迎えると道端で倒れる。
いろいろな体験をした。
私のパニック発作は、夜中に目が覚めると、自分が誰だかわからない、というものだった。
体の感覚がなく、生きているのか死んでいるのかもよくわからない。
自分の体を確かめるように、手足の先から少しずつ動かしてみる。
「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせながら、私はこちらの世界に戻ってきた。
理由のわからない涙が流れてくる。
「人生終わったな」と、何度そう思ったかわからなかった。
それでも、私はその狂気を飼い慣らして、ここまで辿り着くことができた。
その後に、下手したら死ぬと言われる、体の病気にもかかったが、今のところは後遺症も全くなく元気に過ごしている。
そして、仕事も、プライベートも、今はメンタルをやってしまった当時とは比べ物にならないほど充実したものとなっている。
誤解を与える表現かもしれないけれど、心と体が死にかけた経験を通して、私は「自分の命に執着しないようになった」のだ。
「人はいつ死ぬかわからない」
それを身をもって体験したからかもしれない。
だからこそ、必要以上に何かを恐れることは無くなった。
「死」との距離が近くなったのだろう。
だからこそ、思うこと。
何度もブログにも書いているけれども「命の使い道」
そのことに想いを馳せ続ける人生でありたい。
「命の尊さ」ばかりがクローズアップされる時代だ。
「命が大切であること」に疑いの余地はないけれど、「命の使い道」は、それ以上に大事であると私は考える。
ただ、生体活動を続けていれば、それは「生きている」ということになるのだろうか。
私は幾つになっても、自分なりの「命の使い道」を考えて、それに殉じて生きたいと思う。
おそらく、こういう思いが強くなった原因は、私が「狂気」と向き合い続けて生きてきたからだろう。
30代になってからの私。
人生観が根底から覆った。
覆らざるを得なかった。
それでも、私は私の人生を諦めなかった。
そして、私は今、長い時を経て、ようやく満たされているのだ。
私だけの力で辿り着いたわけではない。
多くの方に支えられて生きてきた。
そして、私は素直に感謝を口にして生きてきた。
だからこそ、強く、深いつながりがたくさんできた。
まだまだ道半ばだけれども、私の人生が誰かの希望となるのであれば、これほど名誉なことはない。
私は、精神的にも肉体的にも死にかけた。
だけれども、その経験を糧にして、立ち上がることができなくても、這いつくばってでも、前に進むことをやめなかった。
トンネルの終わりは必ずあるのだ。
どんなに暗闇に包まれていたとしても、
そう信じて生きるしかない。
狂気に身を委ねる時期がある。
そして、狂気から身を遠ざける時期もある。
いずれにしても、忘れてはならないことがある。
人は幸せになるために生まれてきた。
楽しむために、この世に生を受けた。
どんなに苦しくても、それだけは信じ続けなければならない。
それを信じ続けることも、ある意味では狂気なのかもしれない。
だけれども、おそらくそれは困難に負けないために必要な狂気なのだ。
逃げられるものからは、潰れてしまう前に逃げればよい。
だけれども、どんなに苦しくても逃げられないものもある。
そういうものに直面したら、自分が強くなるしかない。
その時には、「狂気の世界」に飛び込むという選択が必要なのだ。
自分の人生を、誰かが代わりに生きてくれるということはない。
それがどんなに辛く苦しいものだったとしても、どこかで、我々は自分の人生を引き受けて生きなければならないのだ。