ドラマ『家庭教師のトラコ』
このドラマを見ていて感じたこと。
脚本は遊川和彦氏だ。
『過保護のカホコ』『同期のサクラ』や『35歳の少女』など、彼の手がけた作品は多くのインスピレーションを与えてくれる。
詳細は割愛するけれど、過酷な運命を背負って生きてきた一人の女性の心が満たされた途端に、味気ない普通の女性に変わってしまう。
そういうことって実際にもあるのだろう。
人は「怒り」を原動力にして、苦しい現状を打開しようと躍起になる。
そして、それを乗り越えた途端に、心が満たされた途端に、月並みな存在に変わってしまう。
かく言う私も、妻と出会ってからは、女性たちとの戦いが終わってしまったかのように、怒りは湧いて来なくなった。
詰まるところ、苦しみを誰かのせいにして、その「誰か」に怒りをぶつけることでしか、自らの存在価値を守ってやることができなかったのだろう。
だから、仮想敵を作って、それに対抗することで必死に生きる。
その中に人間が本来持つ「おかしみ」が生まれてくるのだろう。
そういう時の人間は魅力的だ。
人は守るものができると、理性的にならざるを得ない。
本能に従って行動することにはリスクが伴うものだから、自らを客観的に監視しながら、自らの行いが間違っていないかどうかばかりを気にするようになる。
そうしているうちに、他の人たちと変わらない金太郎飴のような振る舞いばかりをするようになり、ある種の集団に属することになる。
それがあたりまえのようになると、今度は他人にもそれを求めるようになる。
どこかのタイミングまでは、散々好き勝手やっていたはずなのに、気がつくと同調圧力の一員だ。
「若者」と「年配者」の対立構造も同じようなものだし、「パイオニア」と「既得権益者」の対立も同じ。
つまるところ、人は「今の自分」に有利な思考に同調するのだ。
立場が変われば思考も変わる。
その繰り返しの中を生きているに過ぎない。
それでも私は、ある程度は「スポイルされない部分」を保ちながら行きたいと思う。
決定的に自分が自分らしくいられないのであれば、そこにしがみつく通りはないと思う。
具体的に考える私らしさ。
それは「誠実さ」なのだろう。
それを私から取り除いたら、あとに残るものは取るに足らないものばかりだ。
私が長いこと掲げて、それを保ち続けていると実感する数少ないもの。
果たして、常に誠実だったかと問われると、そうではなかったこともあるだろう。
それでも私は「目の前の一人に誠実であり続けたい」と、そう考えて生きてきた。
「恋愛」との相性は最悪だったが、「結婚」というものは、ある意味では私の性に合っているのかも知れない。
私の女性関係は、妻だけのものになった。
難しいことは考えなくて良い。
私は妻に対して、誠を尽くし続ければいいだけなのだ。
私の掲げていたものは、私の「望み」とかけ離れていなかったのだろう。
私の性質は凡人もいいところ、大きな野心などない。
だから、私は私らしく居れば良い。
スポイルされた結果、苦しみを乗り越えて、私は平穏を手に入れた。
戦場を後にして、私が私らしく居られる場所を手に入れたのだ。
妻には感謝しかない。